法律からみた医療の将来
―福島事件を通じて明らかとなった問題を中心に-
関谷法律事務所(弁護士) 宗像 雄
(産婦人科の実際 vol.56 No.12 2007 p2001-2005)
これからの医療,特に医師の法的責任を考えるにあたっては,「医師の裁量権」ということが極めて重要である。医師の裁量権は,過失ないし医療水準との関係および患者の自己決定権との関係の二つの方向で,医師の法的責任の限界を画する意味を有している。福島事件では,癒着胎盤であることを認識した時点で,剥離を続けた場合に胎盤が癒着していた場所から大量に出血することが確実に予測できたような事情がない限り,執刀した医師が行った判断は,合理的であり,医療水準を逸脱するとはいえない,と考えれられる。
はじめに
2004年12月16日,福島県立大野病院において,帝王切開の施術中に妊婦が死亡する事故が発生した。その後,執刀した医師は逮捕・起訴され,現在,同医師の刑事責任の有無をめぐって裁判所で審理が行われている(以下,これを「福島事件」という)。
医師その他の医療従事者(以下,単に「医師」という)だけでなく,医療紛争に関係する法律家も,福島事件については,重大な関心を持って注視している。今回は,福島事件を通じて明らかとなった問題を中心に医療の将来について,法律家として感じていることを述べることにする。
なお,筆者は,福島事件の訓告や弁護等には一切関与してはいない。まったくの「部外者」にすぎない。それゆえ,以下の内容は,もっぱら公開されている調査報告書等や新聞等によって報道された内容をもとにしている。従って,事実関係に関しては正確性に欠ける部分もあろうかと思われるが,この点についてはあらかじめ了解を願いたい。
Ⅰ.医師の法的責任と医師の裁量権
「癒着はく離 妥当か」
これは,福島事件に関して報道する2006年12月15日付の福島民報新聞の記事の「見出し」である。この記事にあるように福島事件では,執刀した医師が癒着胎盤を剥離したことが妥当ないし適切であったか否かが,重要な争点となっている。この場合の「妥当」ないし「適切」とは,医師の正当な裁量権の範囲内にある,という意味である。すなわち,癒着胎盤を剥離したことが医師の正当な裁量権の行使であると認められれば,執刀した医師の法的責任は否定されることになる。
そもそも,医療行為を行うにあたって,医師には裁量権が認められる。このこと自体には,ほとんど異論はない。
医療行為を行うためには,高度に専門的な知見が必要である。また,医療においては,特定の目的のために相互に関連性を有する様々な医療行為が,次々に積み重ねられていく。その過程では,医師には,患者または妊婦等(以下,単に「患者」という)の状態等の変化に即応した,臨機応変な判断が要求される。このような医療行為の性質から当然に、医療行為を行う医師には裁量権が認められる,と考えられている。
そして,これからの医療,特に医師の法的責任を考えるにあたっては,筆者は,この「医師の裁量権」ということが極めて重要な意味を有する,と考える。
||.医師の裁量権の法的な意義
先に述べたとおり,医師の裁量権は,医師の法的責任の有無と密接に関係している。ただ,両者の関係は,必ずしも単純ではない。具体的には,医師の裁量権は,次の二つの方向で,医師の法的責任の限界を画する意味を有する。
1.医師の裁量権と過失の関係
第一は,過失との関係である。
患者に死亡その他の重大な結果が生じても、原則として,(故意を含めて)過失が認められなければ,医師は,刑事または民事の法的責任を問われることはない(過失責任の原則)。過失とは,簡単にいえば,不注意,すなわち,法律上の注意義務に違反したこと,をいう。医師には,医療行為を行うにあたって従わなければならない法的義務,具体的には,結果の発生を予見して,これを回避するために必要な措置を講じる義務(結果予見・回避義務)がある。この注意義務に違反したことを、過失という。
ところで,個々のケースにおいて医師が負う注意義務の基準(依拠すべき規範)は,診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である(最判昭和57年3月30日参照。以下,単に「医療水準」という)個々のケースにおいて、医師が実際に行った行為が医療水準を逸脱するものである場合には.過失が認められる。
そして,先に述べたような医療行為の性質にかんがみれば,医療水準の内容には,医療行為を行うにあたって医師が裁量権を有することが当然に含意されている,と考えられる。
もちろん,医師が裁量権を有するといっても,その範囲は無制限ではない。医療水準の内容に含意されているものであるから,その範囲も,医療水準からみて許容されるものでなければならないことは,当然である。医療水準を逸脱するようなものは,もはや正当な裁量権の行使とはいえない。従って,医師が実際に行った行為が,医師の正当な裁量権の範囲内にとどまる場合,医療水準に合致したものであり,当該医師には過失は認められない。これに対し,医師の正当な裁量権の範囲を超える場合には,医療水準を逸脱したものであり,当該医師には過失が認められる。
以上のとおり,この場合における「医師の裁量権」という言葉は,医療水準の外側にあってこれと対立するものではない。医療水準の内側にあってその外縁(限界)を明らかにする意味を有している。
従って,先に述べた「癒着はく離 妥当か」という新聞記事の見出しは,福島事件において,当該ケースにおける医療水準の具体的な内容がどのようなものであるかが重要な争点であることを、端的に表現している。
2.医師の裁量権と患者の自己決定権の関係
第二は,患者の自己決定権との関係である。
患者の自己決定権とは,医療行為を受けるか否か,どのような医療行為を受けるかなどについて,患者自身が主体的にこれを選択・決定することができる権利をいう。
この権利は,「個人の尊厳」(憲法第13条)に根拠を有するものである。「個人の尊厳」とは,ごく簡単にいえば,「人生のいろいろな段階で十分な選択を持つことができるということ」である(佐藤幸治著『憲法とその“物語”性』有斐閣,2003年,pp94参照)。それゆえ,患者の自己決定権は,「人格権の一内容」として,法的にも保護されなければならない(最判平成12年2月29日参照)。従って,医師が医療行為を行うにあたって患者の自己決定権を侵害すれば,当該医師は,これによって当該患者が被った損害を賠償しなければならない。このことは,実際に行った医療行為が医療水準を逸脱するものではない場合でも,同様である。
ただ,患者が自己決定権を有するといっても,その範囲は無制限ではない。患者が選択・決定した内容が医療水準を逸脱するものであるような場合には,医師は,それに従う必要はない。この点には,異論はない。
これに対し,患者が選択・決定した内容が医療水準からみて許容されるものである場合は,どうか。この場合に関して,医師は,医療水準を逸脱しない限り,患者の選択・決定した内容に全面的に従わなければならない,とする見解も主張されている。これは,患者の自己決定権を強調する論者の見解である。しかし筆者はこのような見解にはくみしない。先に述べたような医療行為の性質にかんがみれば,医師は,必ずしも患者の選択・決定した内容に全面的に従わなければならないわけではなく,専門的知見に基づき合理性が認められる範囲では,自ら判断したところに従って医療行為を行うことができる,と考える。それゆえ,この場合にも,医師には,やはり裁量権が認められ,その正当な裁量権の行使と認められるときは,患者が選択・決定した内容に従わなくても,法的責任を問われることはない。この意味で,患者に自己決定権が保障されるとしても医療の「主宰者」はやはり医師なのである。
以上のとおり,この場合における「医師の裁量権」という言葉は,患者の自己決定権の外側にあって,これを制限する意味を有している。
例えば,分娩の際に近親者の立ち会いや立会人によるビデオ撮影を認めるか否かという問題は,まさに この医師の裁量権と患者の自己決定権の関係をめぐる問題である。ご承知のとおり,近年,医療をめぐっては,患者の自己決定権ないし「患者本位の医療」ということが,強く叫ばれている。今後は,この意味における「医師の裁量権」をめぐる議論が,ますます高まっていくことであろう。
3.まとめ
以上のとおり,医師の正当な裁量権の行使と認められれば,医師は,自ら行った医療行為について法的責任を問われることはない。ただ,医師の正当な裁量権が認められるのは、医療水準からみて許容される範囲に限られる。また,患者の自己決定権を不当に侵害する場合には,医師の裁量権は認められない。すなわち,医師の裁量権は,医療水準の範囲内で,かつ.患者の自己決定権の保障が及ばない領域において,認められるものにすぎないのである。
|||.福島事件にみる医療水準ないし医師の裁量権
先に述べたとおり,福島事件では,医療水準との関係で医師の裁量権が問題となっている。具体的には,執刀した医師が癒着胎盤を剥離した行為が.当該ケースにおける医療水準の具体的な内容に照らして許容されるものであるか否かが,問題となっている。
1.医師に裁量権が認められる理由
そもそも,医療行為は,一定の効果がもたらされるとの期待のもとに,実施される。ただ,患者にとって絶対に安全な医療行為などおよそありえない。医療行為には,必ず,一定の危険が伴う。医療行為を受けることを承諾した以上,患者は,その危険を負担しなければならない。
そして,医療行為を行う医師は,常に 当該医療行為によってもたらされるであろう効果とこれに伴って生じるであろう危険とを比較衡量した上で,当該医療行為を行うか否か,行うとすればどのような方法で行うか,を判断しなければならない。しかも,医師は,この判断を,刻々と生じる患者の状態の変化に対応しつつ,かつ,極めて短時間のうちに行わなければならない。
ただ,2人として同じ患者は存在しない。それゆえ,このような医師による判断は,定式化することが困難であると同時に適切でもない。無理に定式化しようとすれば,医療は,その目的を十分に達成することができなくなるであろう。医療の目的を十分に達成させるためには,医師に対して,萎縮することなく,その専門的な知見に基づいてこれらの判断を行うことができること.すなわち,裁量権を保障することが必要である。もちろん,医師による判断がおよそ合理的とは考えられないようなものである場合には,正当な裁量権の行使とは認められないことは,当然である。しかし,医師による判断が合理的なものである限りは,その医師による判断を法的にも保護する必要がある。
筆者は,医師の裁量権は,このような医療行為を行うにあたっての医師の判断の構造に基づくものである,と考える。
2.福島事件における問題の所在
福島事件では,検察官は,妊婦の胎盤の剥離を開始した後,執刀した医師が,癒着胎盤であることを認識した時点で胎盤の剥離を中止しなかったことは、医療水準を逸脱するものである、と主張している。
ところで,この時点では,すでに胎盤の剥離が開始されていた。それゆえ,この時点で胎盤の剥離を中止すれば.子宮がなかなか収縮せず、出血が長時間持続する,という危険が生じることになる。この危険を避けようとすれば,妊婦から子宮を摘出しなければならない。これに対し胎盤の剥離を続ければ,胎盤が癒着していた場所から出血する,という危険が生じることになる。しかし、子宮の収縮が早められ,出血が収まる,という効果も期待できる。また,この方法であれば.子宮を「温存]することもできる。
そして,執刀した医師は,このような期待される効果と予測される危険を比較衡量した結果,胎盤の剥離を中止しないという判断に至った,と考えられる。
結果的には,執刀した医師が胎盤の剥離を続けたところ,大量の出血が生じたため,妊婦は死亡するに至った。ただ,大量の出血が生じたということは,あくまでも「結果」である。執刀した医師による判断が適切なものであったか否かを考える際には,この事実を考慮してはならない。この事実を考慮することは,医師の判断を萎縮させ,先に述べた医師に裁量権を認めた趣旨を没却させることになる。
それゆえ,福島事件では、すでに胎盤の剥離が開始されていたことから,癒着胎盤であることを認識した時点で,剥離を続けた場合に胎盤が癒着していた場所から大量に出血することが確実に予測できたような事情があったとすれば,結局は,その後に止血するために子宮を摘出しなければならないことになる。このことは,剥離を続けることによって何の効果も期待されない,ということである。それゆえ,執刀した医師が行った判断は,およそ合理的ではなかったといえるであろう。しかし,そのような事情がなかったとすれば,執刀した医師が行った判断は,先に述べたような効果が期待されているものであり,なお合理的であって,医療水準を逸脱するとはいえないのではないか。筆者は,このように考えている。
また、一般に,判断の合理性を担保する手段としては,複数の人によって合議を行った上で決定するという方法が,広く行われている。それゆえ,医師による判断の合理性を担保する上では,複数の医師によるカンファレンスを実施することは,極めて有益である。近年社会問題にもなりつつある産科における医師不足,特にいわゆる「一人医長」をめぐる問題は,医師の裁量権という見地からも,緊急に解決しなければならない重要課題であると考える。
IV.福島事件によって提起されたほかの問題点
福島事件は,先に述べた医療水準の具体的内容に関する問題のほかにも、様々な問題を提起している。これらの問題は,産科だけではなく医療全体に関係する極めて重要な問題である。
ただ、紙幅の関係で、今回は、これらの問題について詳しく言及することはできない。以下,特に重要と思われる問題について、簡単に筆者の考えを述べることにする。
1.異状死の届出義務について
第一は,異状死の届出義務をめぐる問題である。
福島事件では,執刀した医師は、異状死の届出を行わなかった(医師法第21条参照)という事実についても,起訴されている。
異状死の届出義務に関しては,1999年2月11日に東京都立広尾病院で発生した事故を契機として,学会等で様々に議論がなされてきた。しかし,当該事故から8年以上が経過した現在でも,残念ながら,現場の医師が準拠すべきガイドラインが明確に示されていない状況にある。
そもそも,医師法第21条は,「異状があると認めたとき」に届け出なければならない,と規定しているだけで,その文言はあまりに抽象的である。さらに,裁判例においては,この場合の「異状」とは「法医学的な異状と解すべきである」とされており(東京地八王子支判昭和44年3月27日参照),その範囲は,よりいっそう不明確なものとなっている。加えて,同条が,医療機関ではなく医師個人に対して届出義務を課していることも,この問題を複雑なものにしている。
以上のように医師法第21条をめぐっては,単なる解釈論では解決することができない,極めて困難な問題が存在する。それゆえ,筆者は,この問題は、法律を改正しない限り解決することが難しいのではないか,と考えている。
2.医師に対する逮捕・勾留について
第ニは,執刀した医師に対する逮捕・勾留をめぐる問題である。
福島事件では,2006年2月18日に執刀した医師が逮捕された。この時点で,事件が発生してからすでに1年2か月以上が経過してい
た。それゆえに,このことは,特に同業の医師に強い衝撃を与えた。医師団体や学会からは,抗議声明も出された。
そもそも,逮捕・勾留は、法律上,逃亡または罪証隠滅のおそれがある場合に限って許される(刑事訴訟法第60条第1項参照)。福島事件では,捜査機関は,罪証隠滅のおそれがあったことを理由に 執刀した医師を逮捕・勾留したと考えられる。
ところで,執刀した医師を逮捕する時点では,すでに捜査機関によって,事件現場である大野病院について捜索および差押えが行われていた。それゆえ,この場合の「罪証隠滅のおそれ」とは,具体的には,関係者によって「口裏合わせ」が行われることを意味している。
しかし,この時点では,すでに県立大野病院医療事故調査委員会によって複数回にわたって関係者に対する「聞き取り調査」が行われていた。それゆえ.関係者が「口裏合わせ」を行うことは、いねば「自殺行為」にほかならない。従って,この時点では,そもそも罪証隠滅の可能性自体が極めて小さかった,と考えられる。それゆえ、「罪証隠滅のおそれ」があったとは考えられない。
率直に申し上げて.筆者には,捜査機関が,身柄拘束状態にあることを利用して取り調べを行い,それによって自白を採取しようとする意図を持って,執刀した医師を逮捕・勾留したように感じられて,仕方がない。
おわりに
以上,福島事件に関してはまったくの「部外者」からの、勝手な意見として述べさせていただいた。日々臨床に従事している医師,助産師,看護師その他医療従事者の方々に少しでも役に立てば,幸いである。
最後になりましたが,本稿の執筆にあたり,福島事件に関する資料等の収集について,福島県立医科大学附属病院長である菊地臣一教授に多大なご尽力をいただきました。この場をお借りして,心よりお礼申し上げます。
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