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(投稿:by 僻地の産科医)
読売ウイークリーからo(^-^)o..。*♡
不妊治療をする方々、全員の心情が出ているんじゃないかと思います!
不妊治療って、思いつめない、淡々とスケジュールをこなして
まったく結果に一喜一憂しないくらいじゃないと続きません。
それと危険性とか、痛みと苦痛をともないますし。
意図的なだけにやり切れません。
野田さんってかわいい(*^^*)。
「子宮と卵巣に抗加齢は効きませんっ!!!!」
っていうのがもう本当に実感です..。*♡
若いつもりの高齢妊娠の方も、気をつけて(笑)!!!
不妊も出産もせめて30台後半(35くらいかな)までですよ。
野田聖子が語る不妊治療のゴール
「やめることの恐怖は思っていたほどではなかった」
(読売ウイークリー 2008年1月27日号 p96-99)
刺客を放たれての「郵政選挙」に、夫の鶴保庸介・参議院議員との離婚や不妊治療の断念―著作「不器用」(朝日新聞社)で自身の激動の日々をつづった衆議院議員の野田聖子さんに、インタビューを申し込んだ。
「艱難辛苦のてんこ盛りから生還しました。私は今、元気です」と
野田さんは改めて本音を語り始めた。
―野田さんは2004年の著作「私は、産みたい」(新潮社)で40歳で結婚し、体外受精によって03年に妊娠したが、激務で流産したことを告白している。改めて心情をつづったきっかけは。
始まりは前著です親しいマスコミの人に「あなたは国会議員なんだから、いい意味でも悪い意味でも情報公開が必要。不妊治療で苦しんでいる人は世の中に何十万人といるけれど、カミングアウトできず、日陰者のように傷付きながら生きている。あなたが公表することで、無知ゆえの差別発言が減ればいい」と勧められ、出したところ、仕事と治療の両立に悩む女性たちから、「あなたを目標に、苦しくてもがんばりたい」といったメールもたくさんもらいました。しかし、彼女たちが、私が結婚を解消、不妊治療もやめたと知り、落ち込んでいると聞きました。私は今、元気にサバサバやっているので、等身大の姿を伝えることで、元気を出してもらえたらと思ったのです。
―「不器用」というタイトルは自分で考えたのか。
そうです自分は政治家としても、妻としても、女としても不器用。でも、今はこれで幸せなんです。
―6年間にわたる不妊治療について「出口の見えない暗闇」のようだったと書いている。振り返ってみて
よくがんばったなーと思う。と同時に、ぞっとします。不妊治療のつらさというのは、まず精神的に、「人にできることが自分にはできない」という大きな挫折感があります。子どもを産むという、当たり前だと思っていたことができない劣等感です。
女性って、まじめで、勉強でも運動でも何でも「努力すれば報われる」と信じてやっています。私もそうで、割と報われてきたと思う。でも、不妊治療は努力が全く報われない。自分でどうにもできないことほど悔しいことはなく、頑張るにもあきらめるにも、踏ん切りがつかなかった。
実務面では、仕事との兼ね合いというのはやっぱりイタい。私ぐらいの世代、30代後半から40代前半で不妊治療をしている女性は、「働き過ぎてつくり損なっちやったわ」みたいな人が管理職くらいになって、「今しかない」と思ったけれど手遅れで、というケ
ースが多いと思う。私も40歳で大丈夫と思っていましたが、計算ミスでした。
私は「産む機械」だった
治療を始めてから、治療と仕事のスケジューリングに、気が狂いそうでした。治療では人間が自分の力で排卵させるまでの過程を、すべて薬に委ねてコントロールします。しかも、女性ホルモンのバランスは非常に微妙で、私の場合、1日5回、決まった時間に大量の薬を飲み、状況を見て何本もの注射を打った。委員会で議論に熱中し、後で飲み忘れたことに気付くと、「もうすべてダメかもしれない」と絶望的な気持ちになる。
精神状態は今までで一番不安定。選挙に落ちてるときよりもひどかった。ものすごく太りましたし。もう、自分の体じゃないみたいで、柳沢伯夫・元厚生労働大臣が「産む機械発言」で怒られたけれど、私はまさに「産む機械」でした。
男性と同じ仕事をするなかで、治療に行く時間を、繰り返し何時間もひねり出さなければならないのも、非常につらかった。結局、その分、穴を開けることになる。同業者の夫と比べては、へこみました。
―そういうことも重なって、夫婦関係が難しくなってしまったのか。
うーん。ひとつは、薬でホルモンをコントロールするようになると、医師が計画を立ててるところに、個人的な刺激を一切加えたらいけないんじゃないかと、バカだから考えるわけですよ。夫も、薬を飲んでるんだから構ったらいけないんじゃないかと思って。夫婦としての必然のふれあいが、御法度みたいな状況になっちゃった。
―身近に不妊治療をしている人はいなかったのか。
いなかったですね。誰も(状況を)わからないから、誰にも相談できなかった。当時、家に帰ると毎晩、ネットサーフィンしていました。「不妊」で検索して、2時間も3時間も。自分と同じ境遇の人とのバーチヤルな連帯感がないと、やっていけなかった。
「自分がやっている方向は正しいんだろうか?」って自問自答する。採卵して、受精して、失敗。それを休む間もなく、毎月、繰り返す。ムキになっていました。あのころの数年間は、治療と仕事しか思い出がない。
死ぬほど怖かった断念
―それでもやめられなかった。
気が付いたら、不妊治療の泥沼にはまっていた。道路を走るのに、自転車から原付き、そしてポルシェまで、どんどんスピードをエスカレートさせていくようなもの。不妊治療ってまさにそうなんですよ。この値段の治療だと可能性は10%、その上は20%、さらに上は、と。
―金額で妊娠の成功率が変わってくる。
私はどんどん行った。ほとんど保険が利かなかったけれど。アメリカで去年出た新薬とか言われると……。
―「はい」と言ってしまう。
もちろん!・「いや」って言えませんよ。
―ほかのことも見えなくなる。
だから泥沼なんです。前著を書いたとき、一番怖かったのは、「自分は産めないかもしれないな」ということがうっすら見えてきていたこと。「やめ時ってどうなるんだろう。気が狂うんじゃないか」って、本当に怖かった。
(仕事と治療の)2本立ての人生だったから、片方がなくなったら、生きていけるのかなと。続けることもつらいけれど、やめることの怖さで頑張っちゃうんです
選挙もしんどいけれども、こっちのほうがしんどかった。私みたいなきかん気が、もうムチャクチャ。選挙は努力が報われる健全な関係だけれど、こっちは神様の領域だから。
―流産した後も継続した。
流産で、子どもが欲しいという気持ちはむしろ強まった。妊娠できる体だってわかっただけでもよかったって、気持ちを切り替えました。
―そのときは45歳まで頑張ろうと。
(05年の衆議院解散)選挙がないとの前提でした。それなのに、選挙で予定が狂った。選挙中は全く治療ができず、前後3か月くらい治療から離れていました。それはもう、どうしようもない。
それこそ、子どもの命より自分の命を落とされそうだったから。あの選挙、何だったんでしょう。だから、45歳を過ぎたけれど、もう少しやろうとなった。
抗加齢は子宮には効かない!
はい。やはり年齢的に。採卵の後、精子と受精させますよね。受精卵が2分割、4分割と順調に細胞分裂が進めば妊娠の可能性が高くなるので、最後の分裂まで培養させた後、おなかに戻します。元気な人の卵はどんどん育ちます。でも、私の卵は年齢的な老化で寿命が短く、1週間で体力が尽きてしまう。そんなことを4回も5回も操り返すと、さすがに限界が近づいてきたってわかる。
―年齢的な壁は厚かった。
アンチエイジングは、子宮と卵巣には効きませんね(笑)。
無所属で次の選挙の地盤が壊されるかもしれないというので、私は選挙中、ほとんど東京にいませんでした。夫との掛け合いも減った。精神的にも、自民党の議員である夫とは話が合わなくなっちやって。キャリアの長い私が、何で自民党から追い出されて、他党から移籍した彼が自民党でやってるのか、とも思いました。
―夫婦関係の最後のよりどころを「子ども」に求めたが、治療の成績も芳しくない中で、夫から「いつまでやるの」「おまえといると、おじさんを暮らしているみたいだよ」などと言われ、次第に思いつめるようになったという。
そんななかでの治療生活は最悪で、絶望の淵を這っていくという感じでした。
―06年10月、治療のことで口論とナリ、夫はマンションを出て行ったその後、病院に凍結していた精子を使って最後の不妊治療をした。「神様あと1回だけ挑戦させて」と。
内証でした。あのときは、「おまえ、異常だ。おれと別れようって話をしている最中に治療もないだろう。今すぐ電話して、キープしている卵を捨てろ!」って、どなられた。でも、彼とは決定的な(別れの)状況になかったんで、やっぱり、子がかすがいとなるなら、最後にかけてみようと思ったんです。
―1週間後、不成功だとわかった。
当然、落ち込んで。あ、これで一つの何か、自分の中の人生の一場面が終わったな、と。受精卵のストックがなくなったのであきらめざるを得なかった。
反面、ここまでよくやったな、これから楽になるのかなと、ほっとしたところもあった。
でも、(不妊治療の)ゴールを切った瞬間、子を持ちたいと思うことは続けていこうと思った。いろんなアイデアも浮かんできました。向井亜紀さんとの出会いもあり、代理母を探すとか養子を取るとか、子どもを持つにもいろんな形態があっていいんだとわかりましたし。
ただ、体の悲鳴が聞こえたのも事実。今の最高の技術を持ってしても、46~47歳の老化した卵子では、自分のDNAを受け継ぐ子をもつのは無理。弱音を吐きたくなかったから、治療を続けたけれど、歳を取ったという現実をやっと素直に受け入れることができました.
自分が成長したと思えるのは、子どもに自分と同じ血が流れていなければ、というのはちっちゃいよな、って考えられるようになったこと。「自分」ではなく「子ども」にこだわりたい。この間、乳児院に行ったところ、たまたま病院に捨てられていた男の赤ちゃんがいて、すごくひかれた。「この子と家族になれないか」ってお願いしたら、シングルはダメです」と断られちゃったけど。そういう自分になれました。
―子どもを持つ選択肢が増えたということか。
私はやっぱり子どもが好き。一緒に生きていきたいっていう気持ちがいっそう強まった。自分としては、撤退ではなく先に進んだと思っている。でも今、(不妊治療の)泥沼にいる人は押しつぶされそうになっていると思うので、抜け出た私から、「やめることの怖さは思ったほどではなかった。新しい可能性が開けた」というメッセージを届けたかった。この国にいっぱい子どもがいてほしいし。
―そのためにも、あたらしいパートナーをみつけたい?
巡り合いたいです。「おれの子でも、おまえの子でもなくてもいい、一緒に育てていこう」という思いが通じ合う人と。それが一つの完結かな。
もう一つは、シングルマザー。もっといていいんじゃないかな。日本にはまだ偏見があって、シングルマザーって経済的にも社会的地位にも苦労してる。少子化対策ってそういうことを覆すことなのではないか。養子縁組もシングルはダメだし。両親そろっているからいい子が育つというのも幻想で、ひとり親世帯の人に失礼です。家族の形もいろいろあっていい。少子化対策と言ってるけれど、そういうところから変えないと子どもは増えないと思います。
―著書には末尾に鶴保さんの言葉も載せている。「子どもができていたら、たぶん、彼女のもとに戻っていた」「政治家を取っ払って素の部分で対峙していたら彼女はさみしいって言えたかもしれないし、そうしていたら別れていなかったかもしれない」とある。
夫は「無二の親友」に
出版社に鶴保の言い分も付けてくれと注文したんです(読んだ感想は)うちの家族みんな「いいじゃない」て感じです。私も彼もまじめ過ぎて器用じゃなかった。6年間の夫婦生活は本当にゴツンゴツン、正面からのぶつかり合いでした。「まあ、いいじゃん」が言えない夫婦なんです。だらだらせず、きちんと向き合ったのはよかったと思いますが。
でも、夫婦の時間は欲しかった。一緒にいられたのは、普通の夫婦の1年分くらい。時間をつくりたくてもどちらからも言い出せなかった。夫婦の共有時間をつくることに後ろめたさを感じて。国会議員の宿命ですね。
今は無二の親友になれた。寂しさはあるけれども、それ以上に鶴保庸介は一番信頼できる友人であり、尊敬できる政治家です。こんなことは普通、政治家は経験できないので、私は幸せです,結婚生活はそのための助走だったのかもしれません。
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