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(投稿:by 僻地の産科医)
私が勤務医を辞めたわけ◆Vol.2
「勤務医では刑事訴追のリスクを回避できず」
正当に仕事が評価されないのも退職の要因
「僕はプロなんだ」
橋本佳子(m3.com編集長)2008年08月04日
http://www.m3.com/tools/IryoIshin/080804_1.html?Mg=cb5116b7e94e4982c88cb989bdb32659&Eml=e728324f3c9922c5245186c21ac694ad&F=h&portalId=mailmag
――では、「なぜ勤務医を辞めたか」を、それまでのキャリアを含めてお教えください。
C先生 私の場合は、研修医の頃から、「今のこの制度はおかしい」と思っていました。
先日、テレビで医療問題を取り上げていたのですが、ある県立病院の院長が、「今まで大学から医師が“供給”されていた。われわれは、それを使い捨てにしていた」と発言していた。「使い捨て」にしていた研修医が新臨床研修制度で来なくなり、地域医療が立ち行かなくなった。「使い捨て」にしていた状況は皆が気付いていたはずですが、いざ「供給」が絶たれて、初めて問題にするようになったわけです。
1996年卒。消化器内科医。2007年春、退職。内視鏡検査や消化器内科の外来などを複数の病院で担当。
僕自身は、研修医が働くことを前提としている当直体制、当直医が救急を担当し夜通し働き、翌日も勤務しており、それで何かあると刑事告訴の危険がある現状、大学院生が無給で診療を余儀なくされている事実――。様々な矛盾を、事あるごとに病院幹部あるいは行政に訴えたりしてきました。しかし、何の反応もなかった。 卒後10年が経ち、ある程度、院内で発言力も出てきた時でも、「そんなことを言うなら、開業すればいい」などと言われるだけでした。「そうだよな。でも今は無理だから」と共感してくれるなら、まだ納得できたのですが。理解のなさは、父も同じでした。父は医療者ではなのですが、僕がこんなに死にそうな状況で勤務している実態を訴えると、「お前は医者に向いていない」と。
現実として何も改善されず、病院も、行政も、そして身内も理解していない。そうした中で、2006年2月に福島県立大野病院事件がありました。医療事故を防ぐために、日々勉強したり、学会に行ったりしていたわけですが、「寝ずに働いても、事故を起こさない」ようにするのは、鍛えようもない「技術」です。
医療事故が刑事事件になる危険性があることに気付いたわけです。刑事事件になると、家族を巻き込むことになる。今までは自分が犠牲になり、自殺しない程度に働いていれば、何とかなると考えていました。しかし、大野病院事件のように落ち度がないと考えられる事例でも、結果として刑事事件になる。少しでもそのリスクを遠ざけようと考えましたが、この中、つまり勤務医の立場で、リスクを回避するのはもう無理だと。また10年も経つと、僕も熱心に指導はしていましたし、僕を慕ってくれる後輩たちも増えてきます。しかし、環境が変わらない限り、その中で僕ががんばることは、後輩たちに僕自身が無理を強いることになります。
――先生は文部科学省にも手紙を書いたりしたとお聞きしています。
C先生 大学院生時代ですね。大学院生は病院の職員ではないので、診療中に自分自身に何か事故が起こっても、労災で守られないわけです。僕が過労死しても、家族は保障されません。周囲や仲間には、僕の言うことに理解を示してはくれたのですが、それでも一歩引いてしまう方が少なくありませんでした。シニカルに見ていて、「やっても変わらないんだろう」と。飲み会の場で愚痴は言っていても、決定権のある方に訴える人はあまりいなかったですね。さらに院長や部長に言ったとしても、彼らがさらに上に言ってくれればいいのですが、大抵、「お前ら、がんばれ」で終わり、ここで「隠蔽」される。
それでは、次にシステムエラーとして、つまり過重労働が原因で医療事故が起こったとしても、上が責任を取る形にはなりません。本当は、国や病院の責任なのに、その科、その医師の責任になる。言っても何も変わらないので、だんだん辟易(へきえき)してきました。
――お辞めになったのは去年(2007年)の4月ですが、いつごろから「もう辞めるしかない」と考えたのでしょうか。
C先生 一つのきっかけがあり、退職を決断したわけではありませんが、辞める1年くらい前でしょうか。さらにその3年前くらいから、少しずつ自分のモチベーションは下がっていました。自分の子供との時間がおろそかになっていましたし。
――先生が勤務医を辞めたのは、臨床医として11年目ですが、不安などはなかったのでしょうか。
C先生 消化器内科医としては十分研さんを積んでおり、技術的にはどこの病院でも仕事できる自信は付いていました。そうした意味では、「逃げ出せる」環境が整っていたので、幸運でしたね。
――A先生は40歳半ばでメスを置くことに、未練などはなかったのでしょうか。
A先生 僕は感じなかったです。手術は好きでしたし、上手な方だと思っていました。充実感もありました。でもやがて、手術をすることによる責任の重さの方が、負担に感じるようになってきました。 約20年の勤務医時代のうち、後半の10年間、同じ病院で仕事をしていたのですが、自分が執刀医として手術ができるようになったのは、その病院に赴任してからです。一生懸命やりましたよ。ICUもなく麻酔科医もいない状態の病院でしたが、とにかく安全で確実な手術をやろうと、雑用も準備も手術も術後管理もすべて自分で切り盛りして、1例1例丁寧にこなしていました。かなり充実した時期だったと思います。
1989年卒。長年、心臓血管外科医として勤務。2007年春、退職。内科外来や健診の仕事をしながら、開業を視野に入れ、勉強中。
でもそのころ、医局の先輩に言われて今でも覚えていることがあります。「外科医なんて、いつまでやっていても仕方ないんだよ、家族にだって金がかかるだろう、男は稼げなきゃダメなんだよ」と。その先輩医師は僕の尊敬する腕のいい消化器外科医だったのですが、あっさりと勤務医を辞めて開業しました。いつか自分にもそんなときが来るのかなと、そのときフト思いました。
――具体的に辞めようと決心したのはいつごろですか。
A先生 具体的に辞める気持ちが強くなってきたのは、退職の4~5年前です。僕はやるとなったらトコトンやらないと気が済まない性格で、もっといい手術がしたい、もっといいICUが作りたい、もっといい病棟が作りたい、夢や希望はいろいろありました。自分はプロとして最高の仕事をしようと、かなり頑張ってきたと思います。でも、頑張れば頑張るほど限界を感じることが多くなりました。
そしてもうこれ以上は頑張れない、それに報酬だって安すぎる、ここに踏みとどまる理由がもう何も見つからない、と思うようになり、勤務医を辞める気持ちが強まりました。僕は常に「自分はプロなんだ」という意識がありました。だからこそ責任の重さや仕事のきつさには耐えてこられたと思います。でもプロであればこそ、安すぎる報酬には納得がいかず、次第に我慢がきかなくなってきました。
――ご自身の技術を正当に評価してほしい、というのが勤務医を辞めた一番の理由ですか。
A先生 そうですね。組織としての病院に失望することもいろいろありましたし、自分の能力に限界を感じたこともありましたので、一概には言えませんが、でもやはり、もし給料が2倍あったとしたら辞めていなかったでしょうね。だってアルバイトで仕事をした方が、楽で割がいいということは誰だって知っていることでしょう。でもそれを承知であえて勤務医を続けるっていうことは、何かよほどの理由がなければできませんよ。
最近開業した僕の友人がおもしろいことを言っていました。「俺たち魔法にかかってたんだよ」。「ひたすらに頑張ってきて、だんだん周りが気になるようになってきて。でもなぜか見ない方がいいような気がして。一生懸命見えないふりをしてきたんだけど、でもある日、何かをきっかけにはっきり見えてしまう。見えてしまったらもうどうしようもない」。「俺、ある日突然魔法が解けたんだ。そしたらもうダメ」。「それで俺、開業しようと思ったんだ」、と言っていました。それを聞いて、そういえば自分にも「魔法が解けた」瞬間があったなあと思って、妙に感心してしまいました。
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