(関連目次)→医療事故安全調査委員会 各学会の反応
(投稿:by 僻地の産科医)
FACTA 6月号
JUN.2008 VOL.26
【5月20日発行】
絵に描いたモチか「医療事故」究明機関
厚労省が第3次案。地方では無理な司法解剖が決め手?
深まるばかりの医師側と患者側の対立。
(FACTA JUNE 2oo8 p58-59)
医療事故を調査する第三者委員会の議論で、医師側と患者・家族側の対立と不信が先鋭化している。
厚生労働省の「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」の雰囲気は、普通の審議会と追っていた。毎回傍聴席を埋め尽くすのは「医療事故被害者」たち。落ち着きのない一人の青年がメモを走り書きし、席を立って前方に座っている老夫婦に届けた。
「終了後、NHKが“被害者の思い”について取材したいそうです」
この検討会は病院関係者、法律家、行政などからなり、医療事故を調査する第三者委員会の設置を検討してきた。4月3日に厚労省は「第3次試案」を発表し、今国会での法案提出を目指している。
だが、産科や小児科、外科などリスクの高い医師たちは、医が万能でない以上、避け難い死亡例まで刑事責任を間われたのでは、医療自体が成り立たないと猛反発する。
4月12日、日比谷公会堂。超党派の「医療現場の危機打開と再建をめざす国会議員連盟」(会長―尾辻秀久・自民党参議院議員会長)主催のシンポジウムで、ある公立病院の女性産婦人科部長は、限界を超えた産科医の過重労働の実態を訴えた。
「もし福島県立大野病院事件で医師が有罪になれば、私たちは産婦の受け入れを制限するか、休止せざるを得ません」
会場を埋めた医師たちから、大きな拍手が起こった。
大野病院事件とは、2004年、産科を一人で切り回していた医師が、帝王切開申に癒着胎盤の剥離をしたところ、出血多量で産婦が死亡したもので、医学的には予見の難しいケースといわれるが、福島県警は医師を業務上過失致死と医師法21条「異状死の届出義務」違反で逮捕。現在、福島地裁で審理中だ。
「やってられない」が本音
手錠姿で連行される医師の姿が報道され、医療関係者は大きなショックを受けた。「あの事件で医師たちは自分たちが“スケープゴートに”されていることに気づいた」と指摘するのは、地域医療に取り組むかたわら、東大医学部解剖学教室で基礎研究にも携わった斎藤磐根医師だ。
「日本の医療はつい最近まで“野戦病院”レベルで、医師や看護師が英雄的な働きをしていたようなもの。患者や家族もそれを理解していた。しかし設備が整うと、治って当たり前、何かあったら責任追及、という方向に意識が変わった。やってられない、と思うのも当然でしょう」
救急患者のたらい回しも、医師が責任追及の被告席に座らされる恐れと無縁ではない。都内のある総合病院救命救急センターの看護師長は
「東京でも、救急搬送で20件以上断られるのは普通のことになった」と明かす。
奈良・大阪や千葉で、救急患者の受け入れ先がなく死亡に至る事件が続発したが、いちばん救急体制が整っているはずの東京でも、最後に引き受けた病院の献身で最悪の事態が避けられているだけなのだ。
産科・小児科・外科などを志望する医師が減り、なり手のいない病院がそうした診療科から撤退していく現象は、研修医制度が変更されて大学病院が医師を引き揚げていることも相まってますます深刻だ。
先のシンポジウムでは小泉内閣の医療制度改革や経済財政諮問会議が槍玉に挙がったが、その源流は92年医療法改革によるベッド数削減など医療費抑制政策にある、と15年前に斎藤医師は著書『姥捨の国』(弘文堂)で指摘している。それから医療現場は緩やかに疲弊してきたのだ。
「医師側と患者・家族側双方の感情的な対立で、だいぶ議論が迷走したという違和感がある」と、検討会法律家メンバーの山本和彦・一橋大学大学院教授(民事訴訟法)は率直に振り返る。「検討会の議論は、報告書を出した後の刑事・民事・ADR(裁判外紛争処理)など紛争解決の仕組みまで考えるはずだったが、その手前の議論に終始してしまった」
法案となる「医療安全調査委員会」(仮称)は、①明らかに誤った医療が行われ、それに起因して患者が死亡した事案 ②誤った医療かどうか明らかではないが、予期せず行った医療に起因して患者が死亡した場合に、医療機関からの通報により、地方ブロックごとに学会、病院団体、医師会、法曹界、有識者からなる地方委員会が調査にあたるが、調査チームは医療専門家を中心に編成される。中央委員会は主に再発防止策の提言を行うというものだ。
委員会は警察に通知せず
この案について医療と法、双方の領域から問題を指摘する声がある。
一つは、原因究明の方法論が不明確というものだ。調査委員会は、国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会をモデルにしている。交通事故は当然物理学の範囲内で起こるため、ヒューマンファクター以外の原因は完全に解明可能だ。そして事故現場や車両は検証が終わるまで保存を命じることができる。しかし、人体はそういうわけにはいかない。
第3次試案における地方委員会の調査は解剖を基本としている。しかし、病理解剖の体制は、地方ではほとんど整備されておらず、現状でも外部からの観察で死因を推定しているにすぎない。さらに、事件性があると思われる場合の司法解剖の体制が整っているのは、東京23区だけだと斎藤医師は言う。検討会には病理学・法医学の専門家は入っておらず、原因究明の前提自体がすでに絵に描いたモチの可能性がある。
ベストセラー『チーム・バチスタの栄光』の著者で病理学者の海堂尊氏は、『死因不明社会』(講談社スターバックス)で、・解剖に予算がつかず、行われていない現状を明らかにし、代替案として証拠保全としての「Ai」(遺体を画像診断する死亡時医学検索)を主張してきた。検討会でも話題に上り、第3次試案になって初めてひとこと触れられた。
大野病院事件との関連で医療関係者がことさら神経質になっているのは刑事訴追の問題だ。昨年10月に出された第2次試案では、航空・鉄道事故調査委員会の運用に準じて、調査報告書を警察が立件のために使用可能としていたが、医療関係者の猛反発でカルテの改竄、隠蔽や事故を繰り返す医師、故意や重大な過失の場合以外は委員会から警察への通知は行われないことになった。
しかし、小林公夫・明治大学法科大学院講師(刑法・医事法)は、「それでは現行制度と同じだ」と懸念する。「委員会に通報すれば医師法21条の通報義務はなくなるというが、法的な位置づけが不明だ。調査チームが医師の馴れ合いになると、尻抜けになる危険性がある」。そして委員会の議論は、結果と行為の価値を主観的に判断するのではなく、一般的な医療で期待できる水準と、先端分野など、医療として定着しないが医学的に知られる水準かどうかを掛け合わせる「医療水準説」で判断しなければ、医師にとっても危険をはらむと小林講師は警告する。
「専門家への期待はかつてなく高まっている。説明責任義務を果たすことで応えるべきだ」と山本教授は言う。地に足のついた議論が、まだまだ必要ではないか。
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