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(投稿:by 僻地の産科医)
「まず刑罰ありきでは医療は退化する」
日本産科婦人科学会常務理事・昭和大学産婦人科教授
岡井 崇氏に聞く
日経メディカルオンライン 2008. 8. 25
(1)http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t020/200808/507609.html
(2)http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/report/t020/200808/507609_2.html
(3)http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/mem/pub/report/t020/200808/507609_3.html
日本産科婦人科学会は、福島県立大野病院事件の判決当日、いち早く声明を発表した。今回の事件がそれだけ、産科医療の現場に大きな影響を与えるものだったことを物語っている。日本産科婦人科学会常務理事であり、昭和大学産婦人科教授の岡井崇氏に、大野病院事件が医療界に与えた影響や、今回の無罪判決に対する見解などを語ってもらった。
おかい たかし氏○日本産科婦人科学会常務理事、昭和大学産婦人科教授。
――大野病院事件の判決をどのように評価していますか。
岡井 無罪判決を聞いて、正直ほっとしました。もし加藤克彦医師が有罪になっていたら、産科医療はさらに混乱の度合いが増したに違いありません。
大野病院事件は、産科医療の崩壊に拍車をかけた出来事としてとらえることができます。この事件が発生する以前から、産婦人科医の過重労働や産科に関する民事訴訟の増加が問題視され、分娩を取り扱う医療機関が徐々に減っていました。そうした状況下で大野病院事件が起き、当時、分娩をやめようかどうか悩んでいた医療機関の背中を押してしまった形になりました。
さらに、事件発生後には、それまで自身の施設で診ていた中程度のリスクの患者さんを大学病院などに転院させたり、少しでもリスクのある救急患者さんだと受け入れを躊躇する医療機関が増えました。「治療した結果が悪い方に転べば、刑事罰に処される」という恐怖心を抱く産科医が増加し、純粋に患者さんを助けようと思う気持ちが衰えていってしまった。いわゆる萎縮医療に陥ったのです。今回の判決が有罪だったら、この傾向がますます強まったでしょう。
判決内容は、とても納得のいくものでした。癒着胎盤という高度な医療が求められる症例について、「胎盤剥離を中止して子宮の全摘出に移行すべき」とする検察の主張に対し、「これだけを標準的な医療措置とするのは正しくない」と判断したのです。
実地医療においては、結果から遡及的に過失を探ればほとんどの症例で、患者さんの死亡と治療との因果関係を予見する可能性や、死亡を回避する可能性が医師にはあったという結論になってしまう。今回の判決はこうした結果論に基づく医療内容の評価を否定し、「刑罰を科す基準となり得る医学的準則は、ほとんどの医師がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の、一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない」として、加藤医師を無罪とした点を高く評価しています。
――福島地裁は、異状死の定義にも踏み込みました。
岡井 主治医らが医師法21条違反に罰せられた1999年の都立広尾病院事件以来、刑事罰を恐れて多くの医療機関が、明瞭な原因があり明らかに過失でないものも含めて、あらゆる診療関連死を異状死として届け出るようになりました。異状死とは何かがはっきりせず、現場はかなり混乱していたのです。
しかし今回、福島地裁が「診療を受けている当該疾病によって死亡したような場合は、異状の要件を欠く」という見解を示したことで、その混乱は少し落ち着くと思います。ただし、この21条については、今後改正して今回のような問題が起きないようにする必要があります。
――今回の判決は、今後の医療事故調の議論にも影響を与えるでしょうか。
岡井 事故調の議論の内容が大きく変わることはないでしょう。ただ、大野病院事件を機に医師への刑事罰のあり方について世間の関心が高まっており、その中で、医療界は事故調を創設する必要性をしっかり訴えていくべきだと思います。
遺族にとってはもちろん、私たち医師にとっても、診療行為によって患者さんが亡くなることほどつらいことはありません。遺族が悲しみをどこにぶつけたらいいのか、と憤るのも非常によく分かります。でも、犯罪と言えるほどの悪質な医療行為でないにもかかわらず、担当医師に刑罰を与えるのは社会的にみて正しいことではありませんし、国民の利益にもなりません。そうした傾向が強くなると、現在、萎縮医療が問題となっているように、医療はどんどん後退してしまいます。
加藤医師に限らずほとんどの医師は、後から考えれば「あの時にああすればよかった」と後悔をし、また反省すべき症例をいくつか抱えているものです。その際に刑事罰に処されることになれば、医師は反省することができなくなります。
今回の事件について福島県がまとめた報告書では、事故を避けるためのより良い対処法に触れられましたが、これが警察介入のきっかけとなってしまいました。このため、大野病院事件以降、様々な医療事故が起きていますが、調査委員会が作成した報告書の多くが、行われた診療を反省する内容となっていません。報告書に改善点を記すことで、治療に当たった医師が刑事罰に問われる可能性があるからです。だからこそ、事故の教訓を生かして医療を向上させる仕組みとして、警察が介入せず第三者が医療事故を究明する事故調が不可欠なのです。医療界はこうした事情を一般の人たちにもっと説明し、理解してもらう必要があります。
――医療界では、厚労省が6月に示した事故調の大綱案に反対する声が少なくありませんが。
岡井 厚労省案で一番大きな問題点は、「標準的な医療から著しく逸脱した医療は警察に通知する」という規定です。
例えば、Aという薬剤を投与しなければいけないのに、Bという薬剤を投与してしまったといった単純なミスは、警察に通知しなければならない事例になるでしょう。ただ、この事故の背景には、作用は異なるが名称の似た薬剤が一緒に保管されていたため、医師が間違えてしまったといったシステム的な問題もあると考えられます。
そのような場合は、医師個人を刑事罰に問うことよりも、システムの改善の方が重要となります。また、個人を罰してもこういうミスが減少しないことは分かっていることですので、日本産科婦人科学会では「著しく逸脱した医療」を本当に悪質なものに絞った表現にしてほしいと要望しています。ほかの学会では、「医療はすべて刑事免責にすべき」との声もありますが、そのことの議論には時間がかかり、すぐには社会に受け入れられないでしょう。また、警察を完全に排除すると、警察は勝手に動く可能性があります。ですから、現時点では警察とのパイプはつないでおいた方が良いと考えています。
基本的には、患者さんの利益を第一に考えた診断や治療などは、結果のいかんを問わず、刑事罰に問わないでほしいというのが当学会の見解です。故意ではない場合は、単純なミスでも刑事罪を与えないということです。
ただし、こうしたミスを繰り返す医師や著しく能力の低い医師は、医療界として教育的なペナルティーを課さなければいけません。例えば、専門医の資格を一時停止して学会主導で教育し直し、それでもだめなら医師免許の取り消しなど行政処分を課すといった仕組みが考えられるでしょう。今後、事故調の議論を進めていく上で、こうしたペナルティーと教育システムの導入も検討してゆくべきです。そのためには、かなり長い検討期間が必要になりますので、まずは今の厚労省案を基本に必要な修正を加えて制度を創設するのがいいと思っています。
――医療界だけで事故を究明する形だと、真相が隠ぺいされるのではないかとの懸念も上がっています。
岡井 医療界は、かつては患者さんなどへの事故に関する説明が足りず、透明性のない業界だったのは確かです。ですが、数年前から医療事故が社会問題化したことで、今はだいぶ変わってきています。さらに、事故調は有識者や一般市民も委員として参加する仕組みになるはずです。治療の内容や評価は医師の委員たちが主に議論していくことになるでしょうが、有識者や一般市民の委員がそれを監視する役割を果たせるのではないでしょうか。
一方で、患者さんと医師とのコミュニケーションも重要だと思っています。医師が事故について真摯に説明すれば、患者さんや家族が納得してくれる部分も少なくなく、訴訟を避けることにもつながるでしょう。最近では、医療者と患者さんとの間に入って問題解決を図る医療メディエーターという職業も注目され始めています。医師だけでは説明し尽くせないようであれば、このような職業の力も借りるべきです。
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