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(投稿:by 僻地の産科医)
"がん難民"回避に向け現場を離れることを勧める
平岩 正樹 氏
Medical Tribune 2008年7月10日(VOL.41 NO.28) p.45
http://mtpro.medical-tribune.co.jp/article/view?perpage=1&order=1&page=0&id=M41280451&year=2008
がん治療に携わる医師は等しく多忙を極め,心身ともに疲労を蓄積している。平岩正樹氏は外科医として,理想的な抗がん薬による治療を目指し,10年以上実践してきたが,疲労が限界に達してがん治療から撤退した。今,元気を取り戻した経験から,「医療従事者も"がん難民"になりうることがわかった。現場の医師は極度に疲れたら,がんばらずに現場を離れてみる」ことを勧めている。
疲れきってがん治療から撤退
平岩氏は1977年東京大学工学部物理工学科を卒業,会社勤務を経て,東大理IIIに入学し,84年同大学医学部を卒業した。同大学病院第一外科,国立がんセンターなどを経て,94年に静岡県の病院の外科部長に就任。以来,未承認でも効果の高い抗がん薬による治療を開始した。また,がんの100%告知,診療情報の完全公開を実施,患者教育に力を入れ,がんを取り巻く医療制度の改善にも精力的に取り組んできた。
ところが同氏は2年前,都内で行っていた新たながん患者に対する診療活動を突然ストップした。
新薬の承認期間が大幅短縮されるなど,日本のがん医療がそれなりによくなったことが理由の1つ。また,同氏は,技術料が付かず,医師の自己犠牲で抗がん薬治療が成り立っている環境を訴え続けてきたが,「医療全体がやせて,もはやがん診療だけが特別なレベルではなくなり,説得力がなくなった」と感じてもいた。
同氏は抗がん薬治療をボランティア同然に続けていたため,経済的にも限界に来ていた。
精神腫瘍科医の教えに従う
何より,平岩氏自身の精神状態が極度に悪化した。3年前,大阪で初めて開催されたがん患者の集会には,患者が1,500人以上集まり,NHKが特集番組を放送するなど大成功をおさめた。しかし,その仕かけ人で長年の同志だった患者・佐藤均氏が1か月後に亡くなった。平岩氏は一定の成果を上げて亡くなった佐藤氏がうらやましくてならず,「なぜ彼と一緒に死ななかったのだろう」と思うようになった。
うつうつと悩んでいるときに,日本を代表する精神腫瘍科医U氏の言葉を思い出した。かつて同氏と対談した折に,「私の患者の半分はがん患者,残りの半分はがん治療に携わるドクターとナースだ」と聞いて,平岩氏は救われた。「1人でがんばっているつもりだったが,そうではなく,同志がたくさんいる。がんの医療をやっている医師もナースも,みんなつらいのだと初めてわかった」
平岩氏の悩みに,U氏は「本当に消耗しきっている医療従事者は,がん医療から引き離すべきだ。するとすぐ元気になる」と答えた。その言葉に従い,平岩氏はがん治療の現場から離れた。
現場を離れてみるみる元気に
平岩氏のユニークさは,現場を離れてから,同大学文学部に入り直し,昔から大好きだったのに成績が悪かった歴史を勉強しようと決めたことだ。そして,受験勉強を始めるとすぐに,あれほど悩んだことを忘れ,みるみる元気を取り戻した。
駒場キャンパス(同大学教養学部)に通い始めて1年以上たつが,学問に接するのがうれしい毎日だ。なまっていた体を鍛え直すためにトライアスロン部にも入った。「もう医療に戻りたいくらい元気になっている」(同氏)。しかし,あと2年半勉強し,卒論も書いて卒業したいというのが本音。「今度は簡単に撤退しないように,強い治療システムを構築してから戻ろう」と考えている。
がんばっている医師たちへ
平岩氏には「自分はがん医療の現場から逃げ出した」思いがあり,今も,がんばっている医師たちに申しわけない気持が強い。他方,"がん難民"は行き所のない日本の患者に同氏が付けた名前だが,「自分の体験は医療従事者も"がん難民"になりうる一例だった」とし,本当にがんばっている医師が消耗し"がん難民化"することを危惧する。また,個人でなんとかする段階を過ぎ,むしろ個人のがんばりが現行の医療制度を延命させ,不要な道路には金を注ぐのに年々医療費を抑制するようなことを許している,と指摘する。
同氏は「このままでは医者はもたず,日本の医療もじり貧になっていくだけだ。がん医療に携わる医師は,つらいと感じたときはがんばらず,思い切って一度現場から離れてみることを勧めたい」と述べた。
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