(関連目次)→ 医療を理解するには
(投稿:by 僻地の産科医)
大淀病院裁判はちょっとおやすみ。
今月号のロハス・メディカルからです(>▽<)!!!
ロハス・メディカルって、
あの、ロハスメディカルブログと関係があるの?とおもった貴方!
鋭いです..。*♡
ブログの方は、趣味みたいなものなのだそうで、
(ブログも十分、全国レベルですけど)
患者さんと医療者をつなぐ医療情報専門雑誌を作っていらっしゃいます..。*♡
この数ヶ月、待合室に置かせていただいていますが、
12月号の『がんの可能性 そう言われたら』
はかなり評判がよくって。。
もって行かれてしまった。。。ががーん(-_-;)。。。
ま、いいか。
癌問題はやっぱり、患者さんにとっては切実ですからね。
というわけで、どうぞo(^-^)o..。*♡
バックナンバーはこちら!あと誌面ダウンロードもできます..。*♡
ストップ!!萎縮医療 (ロハス・メディカル 2008年1月号 vol.28 p18-23) 自分や家族が急に倒れて病院に運ばれた時 世界屈指だったのに しかし日本の医療は、長くこの難題をクリアし「総合世界一位」(WHOの判定)を続けてきました。医療従事者たちの多くが国際的には安い基本給で残業代も休日手当もなしに働いて費用を吸収していたことと、医療紛争・訴訟が少なくて、その対応費用を計上せずに済んだことが理由として挙げられます。 しかし最近、誠実に努力したのに、後で社会から納得いかない理由で批判され、場合によると訴えられるということが多くなっています。 なぜ萎縮するの? いきなり法律の話を持ち出して恐縮ですが、民事契約上では、医権者は患者に対して最善を尽くすという「手段債務」は負うけれど、最善の結果を約束する「結果債務」は負わないと解釈するのが一般的です。つまり、「結果の最善」は求められていません。 どうすればいいの? 不幸な結果が出た際に、医療者は理不尽に責められず、患者側は十分な慰謝を受けることができる、こんな仕組みは考えられないでしょうか。
医師に最善を尽くしてほしいと願うし、
そうしてもらえると信じていますよね。
でも最近、それがちょっと危ないのです。
医療の価値を測る時、一般に3つの指標が用いられます。医療の受けやすさ(アクセス)、医療技術やサービスビスの質の高さ(クオリティ)、費用の安さ(コスト)です。指標が高いとか低いとかは相対的なもので、社会の要求レベルや技術の進歩などによって変化して行きます。
3つは相互に関連性があり、一般的には費用を一定にしてアクセスを改善するとクオリティが下がり、アクセスを維持したままクオリティを高めるなら費用が上がるという風に、3つ同時に改善することは至難の業とされています。
医学生たちが事あるごと肝に銘じさせられる「ヒポクラテスの誓い」という基本哲学の中に「能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない」(小川鼎三訳)という文言があります。3つ同時に求めれば「患者のためになる」という、医療者たちの使命感とモチベーションによって支えられてきたのです。
そしてこの結果、後からとやかく言われないことを優先して、医療者がギリギリのところまで責任を引き受けすに必要以上にリスクを避けるということが増えています。当然、それは3つの指標を悪化させます。
分かりやすい例として、検査が挙げられます。医療に「最高の価値」をめざすなら、不要な検査はしないに限ります。やらない方が費用は安く、患者の苦痛も少なく、治療も早く済むからです。しかし、もし「検査していれば分かったはす」の何かを見落とした場合、医師は大いに責められます。だから今は少しでも迷ったら検査しておくのが一般的で、どんどん検査の量が増えています。
また、救急医療現場では、すぐに治療しないと症状が悪化し手遅れになる可能性の高い患者が数多く運ばれてきます。症例によってはリスクを覚悟で起死回生を狙う治療も必要です。以前ならば、すぐ積極的な治療に入っていたはずですが、最近は家族などに対するインフオームド・コンセントが済んだあとでないと、リスクのある起死回生を狙った治療はしなくなりつつあります。
これらが萎縮医療とか保身医療とか防衛医療とか呼ばれるものです。端的に言うと、検査は最大、治療は最少、自信のないものは引き受けない……。当然、費用は上がり、アクセスは悪くなり、クオリティも落ちます。
医療従事者たちも好きでやっているわけではありませんが、この萎縮医療が急速に広がりつつあるのです。
救急車の引き受け先がなかなか決まらないとか、救急病院が減り続けているというのも、一つの表れと見ることができます。
さて、誠実であろうとギリギリまで頑張った医療者が後から批判され、逆にリスクを取らすに逃避しても責められない、という不思議なことが起きるのは、一体なぜでしょう。
不思議と思わない? その認識が共有されないと話が先に進みません。放っておくと普通は事態が悪化するという点で似ているので、家の火事に見立ててみましょう。医権者は消防士に見立てられます。消火しないと全焼してしまう、と一刻も早い消火をめざして近隣まで水浸しにしたとして、これを責める人がいるでしょうか。むしろ、放水を控えた方が責められますよね。でも医療では、皆がビクビク放水する状況です。
この不思議さに思いを致すと、医療者の認識する「医療の現実」と、社会の考える「あるべき医療」との間に大きなギャップが生じていることに気づきます。
医権者は、医療は本質的に危険なものであり、虎穴に入らすんば虎児を得す、という性格のものと思っています。患者に一体何か起こっているのか必ずしもわかるとは限らない、それでも生命の危険が迫っている状況であれば、割り切って決断しなければならないと思っています。
後から見れば、診断が必すしも完全でなかったり、治療法に多少の問題があるかもしれませんが、それを「誤り」と捉えるのは「後出しじゃんけん」のようなもの。能力や知識が著しく劣っているのでない限り、その時その場にいた平均的な医療者が、与えられた条件の中で力の限り対応したならば、それは「最善の医療」だと考えるのです。
対して社会には、専門家なのに診断や治療法を間違えるなんて許せないという考え方があります。医療で被害を受けるなんて許せないという考え方があります。施設によって受けられる医療に差があるなんて許せないという考え方があります。
どのような状況にあっても的確に原因を探り当て、適切な治療を行い、悪い結果を回避することこそ「最善の医療」だと考える人は少なくないはずです。
しかし、それを約束することは果たして人間に可能でしょうか?消防士が近隣には絶対に被害を及ぼさす速やかに鎮火させると約束することに置き換えたら、どうでしょう。いかに無茶な要求か分かるはずです。
医療者の「最善」が現在進行形の当事者の視点から定義されているのに対して、社会の「最善」が事後的に第三者の視点から定義されていること、お気づきでしょうか。言葉を換えると、前者は経過や姿勢に対して「最善」を用い、後者は結果に対して「最善」を用いています。
そもそも不可能という本質論からも導き出される結論ですが、法的には以下のように説明するようです。結果を債務として約束するには、それに値する対価を要求できなければいけないし、断る自由もなければならない、と。
保険医療である限り価格は公定です。難易度が高いからといって、余計にお金を取ったら摘発されます。また、医師は正当な事由なしに診療を拒むことはできない、と医師法で定められています。
本来は、経過に全力を尽くさなかった時に責められるべきであり、結果を責められるべきものではないのに、現実には医療者は結果で責められています。しかも、家が全焼したのは消防士の技術が悪かったからだ。隣家に水をかけた分を火元の家にかけていれば全焼しなかったのではないか。放水による隣家の被害も消防士の責任だから賠償せよ、と例えられるような判決が出たりしています。誠実にやった医療機関ほど紛争を抱え込んで逆淘汰されかねない状況なのです。
このように正直者がバカを見る状態だから、危ない橋を渡るのはやめよう、と萎縮医療になるのです。
私たちは、いつでもどこでも医療を受けられて当たり前と考えがちです。社会の高齢化が進めば病人も増えます。一方で政府は、アクセスを悪くすることで医療費を抑えようと、病床数と医師育成を制限してきました。
板挟みでしわ寄せを食らったのが、現場の医療者たちで、労働環境は悪化する一方でした。さらに、国民の医療不信も高まって、訴訟は急増し、医療者にとって信じられない判決も出るようになりました。
いま医権者は、リスクの高い患者が集まるけれど勤務条件は悪いという地域の基幹病院から、次々と逃げ出し始めています。既に医療者の絶対数が不足して必死に持ちこた
えている状態なのに、さらに医権者の「萎縮」まで起これば、もはや医療崩壊は止めようがなく、「受けたいのに医療が提供されない」という圧倒的供給不足が起こってくるでしょう。
近年は医療を消費財と見なして、医療者をサービス提供者、患者をサービス消費者と捉えるのが優勢でした。しかし、供給が足りなくなってしまったら、3指標がどうのこうのという騒ぎではなく、皆で大切に守り分け合う公共財として捉え直さないと大変なことになります。
どうしたら流れを変えられるでしょう。
一義的には、医療者が安心して全力を尽くせるような風土に戻せればよいことです。とはいっても、昔の「由らしむべし 知らしむべからす」に戻るのもトンデモないこと。
前項で述べたように、この流れの根底には、医療の現実と社会の要求とのギャップがあります。両者のギャップを埋めてつなぐ、そんなシステムが必要です。
医療側の過失の有無にかかわらず不幸な結果は補償されるという「無過失補償制度」と、当事者どうしが納得いくまで話し合い自ら解決策を導き出すことのできる「裁判外紛争処理」(ADR)とが、セットでできあがると随分状況が変わりそうです。当事者が納得するならば、必ずしも公的なものである必要はありません。実際、ADRについては、いくつかの取り組みが始まっています。
とは言ってみたものの、既に「萎縮」と「供給減少」の悪循環は始まっており、仕組みが整うまで待っていると、どんどん状況が悪化します。少なくとも医療体制が立ち直るまでの間、医療を公共財と捉え直し、3指標悪化を受け入れる必要がありそうです。
3指標悪化のうち、影響が最も軽そうなのはアクセスでしょうか。とはいえ重病人に我慢しろなどとはとても言えないこと。まずは程度の軽い疾患の患者が、コンビニエンスストアの感覚で夜間・休日に受診するのをやめることから始めては、いかがでしょうか。
萎縮する医療者を責めるのは簡単です。しかし、その原因が自分たちにもあると気づかないままなら、その言葉や行動は、やがてブーメランのように返ってきて、私たちの首を絞めることでしょう。
萎縮医療を止めるため、私たちにもできることがあります。
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