(関連目次)→自宅介護について考える
(投稿:by 僻地の産科医)
メディカル朝日からo(^-^)o ..。*♡
後期高齢者医療などの問題で、自宅介護が取りざたされています!
作家の落合さんのインタビューが載っていましたので!
いいこといってらっしゃるな~とおもいましたので紹介します。
http://www.asahi.com/medical/index.html
7年間の介護生活を振り返って
落合恵子さん 作家
(Medical ASAHI 2007 0ctober p22-25)
2007年8月、落合恵子さんは自宅で母親を見送った。多発注脳梗塞、パーキンソン病、腎臓機能不全――、いくつもの病気を抱えての「要介護度5」。さらに、5年前からはアルツハイマー病も加わり、落合さんいわく「記憶の回路が目詰まりを起こした母」を在宅で介護してきた,その毎日は、先ごろ文庫本化された『母に歌う子守唄 わたしの介護日誌』(朝日文庫)に、丹念に描かれている,在宅での一日一日は、母と娘にとって今までで一番濃密な時間だったと語る落合さんだが、時に、この国の医療や福祉の在り方に憤り、また、医療従事者の不適切な対応には「うるさい娘」に徹。たという。今、介護を終え、その日々を語っていただいた。
――お母様の最期はいかがでしたか。
落合 いつもは、体調が悪くなってもすぐに盛り返すという按配だったのですが、6月の下旬頃からなかなか血圧が上がらない、点滴に利尿剤を加えても効かないような状態になったのです。しかし、これまでは「何か起きても不思議ではない」と医師に言われながらも、越えて来ましたから思いは半々で、大丈夫という期待と、今度ばかりは覚悟が必要かなと……。この夏は酷暑でしたし、私の気持ちはとても揺れていました。
そして8月、母は住み慣れた自分の部屋で、延命治療は一切行わず、自然におだやかな最期を迎えたのです。既に胃ろうを施術していましたが、前日にはシャーベットをスプーンでほんの少しだけ食べて、満足そうでした。
容態によっては緊急入院という選択もあったのですが、在宅で診ていただいていた主治医の先生と相談の上、母が愛した自分の部屋で、いつもと同じ環境の中で見送ろうと決めていたのです。がっては、彼女白身も在宅で母親を看取り、元気な頃から「わが家が、一番好き]と言っていた母です。また、病院では様々な人が病室を出入りしますし、延命措置を受けながらでは、思う存分に母の手を握ったり抱きしめたりすることができないだろうと思ったのです。私自身が、最期まで母のぬくもりを感じていたかった――。
在宅医療の主治医の先生には、とても感謝をしています。自宅にこだわる私に先生は「私も同じ状況でしたら、落合さんのように望みますよ」と話され、鼻の頭をぱあ-と赤くして涙ぐまれた。「ああ、この先生で本当に良かった。最期まで信頼しよう」、そう実感した瞬間でした。
――仕事と介護の両立は、どのような毎日でしたか。
落合 基本的に宿泊の必要があるような講演や取材などは避けましたが、やはり日中は外出での仕事が多いので、昼間はヘルパーさんと看護師さんに介護をお願いしました。仕事から自宅へ戻ってヘルパーさんと交替し、主に夜から翌朝までが私の介護時間です。
原稿を書きながら、ほぼ2時間ごとに母の体位を換え、ある時まではオムツも交換。ある時から導尿になってしまいましたが。また、排尿量を確認しながら、水分補給なども行います。明け方に「お母さん、もう少しだけ寝ようね」と声をかけ、私もベッドの傍らで仮眠をとるような毎日で、かなりの睡眠不足でした。昼間の移動時には睡眠をとりたくて、新幹線を「ひかり」にしようか「のぞみ]にしようか迷ったほどです。車中で爆睡すれば、新大阪から東京までは30分ほどの差がありますから。
それでも仕事柄、一日中自宅で原稿を書く日もあって、ある程度は自分で仕事を調整できます。私の介護生活は、幸せなほうでした。会社に勤務している友人などは、転職や退職を考えたり施設を検討したりと、皆さん大変な苦労をされています。
在宅の介護で得たもの 落合 一つには、母自身が望んでいたということ。そして私が、母と一緒に過ごせる2人だけの時間が欲しかったのです。また、仕事の合間を縫って施設や病院へ通うという、時間的な負担も避けたかった。忙しいからこそ、私には在宅介護が理想的だったのです。夜遅くなっても、家に帰れば母が待っている。在宅では「面会時間」や誰をも気にせずに、十二分に母と向き合うことができました。 そのような理由で始まった介護は7年間続きましたが、たとえ認知症で言葉を失っていても、母の表情やぬくもりが、何よりも私を支えてくれていたのです。今、彼女を見送って、そのことを改めて痛感しています。母の存在に私はどれだけ癒され元気づけられたことか。声や思考は失っていても、毎晩「ただいま」と呼びかけると微かにうなずき、ある時は「私を見て」とお願いすると瞼を開けて私をしっかり見てくれました。母と過ごす時間の中で、いのちの不思議さを何度も経験し、改めていのちに対する畏怖の念を忘れてはいけないと教えられました。 落合 初めての介護で、毎日が戸惑うことだらけでした。食事から排泄の方法などの生活のこと、車椅子やベッドなどの医療機器のこと、何でもないようなことでも分からなくて悩んでしまう。そんなとき、まわりの経験者や専門家のアドバイスが一番でした。ヘルパーさんもさすがにいろいろな介護術を心得ていて、強い見方になってくださいました。 さらに私は東京新聞で母のことを連載し始め(現在も連載中)、多くの読者から貴重な助言をいただきました。介護者同士がネットワークを作って、情報交換を積極的に行うことも問題解決の一歩となるでしょう。 『分かりません」という主治医の言葉 ――医療面では、どうなさいましたか 落合 ここ数年、在宅医療の先生には週に一度の往診を、看護師さんには毎日の訪問をお願いしていました。 24時間対応の診療所で、何か異変があれば深夜でも連絡をとって指示を仰ぐことができました。主治医の先生は決まっていましたが、複数の医師によるチーム医療の態勢でしたから、替わりの先生の往診も可能だったことは心強かったです。 夜間や緊急の場合、医師1人だけでの在宅医療は大変でしょうね。患者の側も電話をするだけでも、申し訳なくて気が引けてしまいます。以前は、1人で開業しながら訪問医療も引き受けていた先生だったのですが、深夜、電話に出られた眠そうな声が忘れられません。結局、母を看取ってくださった主治医の先生は、4人目にしてやっと巡り会えた医師でした。たとえ、治療方法は同じであっても、主治医によって患者や家族の精神状態は全く違ってきます。在宅医療では病気を診るだけでなく、患者の個性やその家族、背景となる暮らしまでを含めて理解できなければ難しいことを痛感しました。 落合 レントゲンの撮影が必要な時は、機材を搭載した大型車を自宅まで手配してくださり、胃ろうの交換時などは総合病院とのスムーズな連携で1泊ほどの入院ですみました。何事にも迅速で丁寧な医療を心がけている、毎回、そんな主治医の姿勢が感じられる在宅医療でした。 在宅での介護は必ずしもベストではない ――やはり、在宅での介護が最適なのでしょうか。 落合 いいえ、誰にとっても在宅がベストだとは考えていません。被介護者、そして介護をする人が何をどう望むかなのです。在宅のほうが「手厚い介護」というイメージで、最良だとする世間の風潮がありますが、必ずしもそうではありません。 施設を利用しての介護もあるし、また違う方法があっても良いわけです,在宅と施設、この二つの間にもっと様々なバリーエーションが用意されていて、それを誰もが選択できる可能性がなければ、この国の高齢者は幸せにはなれません。介護問題は普遍的で、より社会化させることが重要だということを、声を大にして申し上げたい。 「うるさい娘」と化したことも ――今後、さらに高齢者医療は拡大していきます。 ――最後に今後の活動を一言。
――在宅での介護を決めた理由は何ですか。
――介護をスタートさせて、いかがでしたか。
――理想的な主治医と出会えたのですね。
また、先生は私の質問に時々「それは、分かりません]と正直に話してくださる。けっして断定的な即答や、その場しのぎの対応はしないのです。でも、「分かりません」のフォローは必ずあって、その後で先生が検討した結果や診療所内のカンファレンスで得た他の医師の意見などを教えてくださいました。それはファクシミリで屈くこともあれば、次の往診時に詳しい説明とともになされることもありました。今は患者側も様々な方法で医療を勉強していますし、ある程度の経験を重ねれば医師の態度で、取り繕った対応かどうか、だいたいは見当がつくものです。
最近では、政府も在宅介護を奨励していますが、これは一方で介護の役目を特に女性にという逆行の側面があります。ですから、実は母の介護を公表することには、いささかためらいがありました。あれほどフェミニスト的な視点で活動をしている人が、実生活では在宅介護を実践して「親孝行」をしている――。「在宅がベスト、介護は女性」といったパターンで見られることは、非常に抵抗がありました。「私の場合」は、在宅を選択したということを強調したいのです。
落合 医療に従事されている方列こは医療だけでなく、「老人学」も研究していただきたいですね。病気にならなくとも、歳を重ねると身体の調子はどう変化するのか、また、精神状態や生活能力を知ることが、高齢者医療では必要とされるでしょう。高齢者の1日は、若い世代の1年ほどの時間感覚に当たると思います。明日は分からない、ぎりぎりの瀬戸際にある。そのような高齢者の、それも個々の気持ちを慮る医療が望まれるのですが――。
現状では、残念なことに「老いる」ことをまだまだ誰もが「負」のように受け止めていて、何事も歳だから仕方がないといった諦めが強いです。科学者である医師さえも例外ではなく、しかるべき検査も行わずに高齢者イコール認知症と考えている先生も過去にはいました。
1998年の母の最初の入院で、私は彼女の背中に大きな青痣を見つけました。宿直の医師からの説明は曖昧に終止し、看護師さんたちは目を合わせようとしない。結局、環境の変化に戸惑った母がベッドから転落した「らしい」ということでした。その時、医師から「痴呆症ですね」ということだけは断定されました。入院した翌日、まだ何ひとつ検査をしていない状況で。「どのような検査をしたのでしょうか?」一瞬にして「うるさい娘]と化した私は、そう問い返えした経験があります。
それでも、とても素敵な先生にも出会いました。いつも不規則な時間に慌しく訪ねる私を気遣ってか、病室に「連絡ノート」を用意して、時々の母の具合や治療などの説明、また私の質問や相談事への答えを書き込んでくださいました。これは、とても良い便利なコミュニケーション術で、感心したものです。患者の家族も気兼ねなく、いろいろなことを先生に伝えることができるのです。
現状の病院では先生や看護師さんはいつも忙しそうで、声をかけるタイミングがとても難しい。看病をする労力よりも、いつ相談しようかとやきもきするエネルギーのほうが、私には大変でしたので。
落合 医療従事者の方々が一人でがんばらない、余裕を待って患者や高齢者に対応できるような環境や生活が必要ですね。そう考えると、政治の力が重要になってくるのです。国の予算を戦争関連に使うくらいならば、その分を医療や福祉関連に使って欲しいと、私は怒りつつ、祈っています。今後、私たちは、どのような老いを、最期を迎えるのでしょうか。この問題をテーマにしっかりと勉強し、社会へ向けて発言していくつもりです。
「美しい国」よりも、「いのちを慈しむ国]の実現を切に望みながら――。
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