妊娠中の航空機搭乗に際しての注意点
国立成育医療センター周産期診療部産科 塚原優己
(日本産婦人科医会報 平成15年5月1日号 p10-11)
問 機内の環境は地上とは異なるのでしょうか?
答 飛行機は、ほぼ1気圧の地上から離陸し1万m前後の高度を飛行します。機内の環境は地上環境に近づけてはおりますが、構造上の制約からO.7~O.8気圧の低圧環境であり、したがって酸素分圧も地上の70から80%程度の低酸素となります。動脈血中の酸素分圧も通常の95Torrから55~67Torr程度まで低下しておりますが、血中ヘモグロビン酸素飽和度は90%以上を維持しており、通常健康な搭乗者は低酸素血症にはなりません。また、機内温度は20~22℃まで温めておりますが、湿度は20%程度と低く、乗客が少ない場合にはほぼO%まで下がることもあります。そして着陸時には、15分程度の間に一気に地上の環境まで戻ります。
問 人体は環境の変化にどのように適応するのでしょうか?
答 離陸の際の急激な高度上昇に伴う気圧の低下および機内酸素分圧の低下に対し、人体は心拍数の増加、血圧の上昇、さらに好気性エネルギー代謝の減少で適応します。通常、高度約1万mを飛行中の酸素消費量の減少は3%程度に止まりますが、妊婦では13%も減少します。また、離陸の際のこれらの変化は動脈血酸素分圧の低下をももたらしますが、酸素分圧の低下の程度は通常の妊婦に影響を与えるほどではありません。胎児には母体に認められるこのような反応は認められず、したがって大きな影響はないものと考えられております。しかしながら、心血管系疾患を合併した妊婦には、悪影響を与える可能性があります。
このような妊婦が飛行機を利用される場合は、あらかじめ機内に酸素を持ち込んでおくことが必要と考えられます。また、早産の危険がある妊婦や前置胎盤などの胎盤異常を抱える妊婦の航空機搭乗は避けるべきです。
問 航空機搭乗時に一般に起こりやすい疾患とその予防法や対策は?(表1)
答 耳管閉塞の強い方や感冒などで上気道粘膜が腫脹している場合には、飛行機の離陸・着陸の際の気圧の急激な上昇や下降に伴い、鼓膜内外に圧格差を生じて炎症を引き起こす、航空性中耳炎が発症しやすいといわれております。
また気圧の変化に伴い、歯に起因する顔面痛が起こることがあります。耳管を開放し中耳炎を予防するためには、唾を飲み込む、唾液を増やすために飴をなめる、両鼻孔と口を閉じた状態で嚥下運動を繰り返す、あるいは耳管通気法(両鼻孔と口を閉じた状態で強い呼気(着陸中)あるいは吸気(離陸中)を行う)などが有効です。降下の際に何度もあくびをすることも効果的です。飛行前あるいは飛行中に抗ヒスタミン薬を服用することにより、これらの症状が防止あるいは軽減されることもあります。
コンタクトレンズをしたまま眠ってしまうと、乾燥性の角膜炎や角膜潰瘍をきたす危険があります。特にソフトコンタクトはハードコンタクトに比べ涙水の吸収が強いので注意が必要です。可能な限り機内では眼鏡の使用が望ましいと考えられます。
機内の低圧環境により、軽度の膨張で痛みや組織の圧迫を引き起こすため、症状が悪化しやすい以下の患者では、航空機による旅行は禁忌とされています。気胸、あるいは気胸を発症する可能性がある患者(例:大きな肺性胸膜下嚢胞や空洞など)、体内に空気やガスが閉じ込められている患者(例:腸管の嵌頓、胸部または腹部の手術後[10日未満]、眼球内ガス注入後など)。また、人工肛門を形成した患者は、頻繁にバッグが膨満することを想定し、大きなストーマバッグを用意する必要があります。
機内の低酸素状態により、中程度または重症の慢性閉塞性肺疾患(例:喘息、肺気腫、嚢胞性線維症等)、心不全、Hb8.5g/dl未満の貧血、重篤な狭心症、鎌状赤血球症およびある種の先天性心疾患では症状の増悪をきたす恐れもあり、持続的酸素供給装置の使用が必要となりますので事前に航空会社に連絡しておかなければなりません。
旅行者血栓症(いわゆるエコノミークラス症候群)
長時間の着座により引き起こされやすい疾患に、深部静脈血栓症(いわゆる旅行者血栓症、エコノミークラス症侯群)があります。座席に固定され足を動かさずにいると下肢の深部静脈が圧迫され、静脈還流が停滞し静脈血栓が作られ、起立時あるいは歩行時にその血栓が肺に飛び肺塞栓を起こします。肥満や喫煙の習慣、静脈血栓の既往、下肢の静脈瘤、足の手術の既往あるいは骨折の既往などが危険因子とされています。また、経口避妊薬を服用している女性も凝固能が亢進しており注意が必要です。機内の極端な湿度低下による脱水(血液の濃縮)が血栓形成を助長します。血栓形成までには約4時間程度かかるといわれており、国内便の利用に際してはあまり気を使う必要はないかもしれません。
また、妊婦の航空機搭乗時の旅行者血栓症は今のところ報告されておりません。下肢の静脈の欝滞による血栓形成を予防するためには、座席に座った状態でも時々足を動かしたり(つま先立ちを繰り返す)、あるいはトイレに行くときに屈伸運動をして足を伸ばすことが効果的です。長時間足を組んで腰掛けることはよくありません。また、水分を十分に補給し脱水を回避することも大切です。利尿作用のあるコーヒーやアルコール類は避けた方が無難でしょう。締め付けの強くないゆったりとした服装を心掛けることはもちろんです。
血栓のリスクのある方に、予防のためのストッキングの着用を勧めるケースもあるでしょうし、アスピリンやワーファリンなどの凝固抑制作用を有する薬剤の内服を勧めることもありますが、薬剤の効果については確認されてはおりません。
問 妊婦の航空機搭乗時の注意点は?
答 前項に記しました疾患は、妊婦でも発症する可能性がありますのでその対策は必要です。機内での気圧の低下に伴い腸内ガスが膨化するため、妊婦では腹痛や腹部膨満感、さらには頻回の子宮収縮をも引き起こしかねません。ゆったりとした楽な服装を心掛けること、搭乗前に炭酸系飲料水などのガスを産生しやすい飲食物や大量の食物摂取はなるべく避けること、つわりの時期には前もって乗り物酔いの薬を内服しておくことなども、機内で快適に過ごすための工夫といえます。
乱流により外傷を引き起こすこともあり、着席している間は常にシートベルトを締めておかねばなりません。シートベルトは、殆どの飛行機で妊婦用に延長されたものが用意されておりますのでこれを使用し、腹部の下で股関節部を横切るように締めてください。急激な振動時の外力がシートベルトから直接子宮に伝わらないように、間に毛布をはさむとよいでしょう。
これまでのところ妊婦の旅行者血栓症の報告はないようですが、妊娠そのものが深部静脈血栓症の危険因子でもあることから、前述の予防対策を十分考慮した上で搭乗することが肝要と考えられます。
問 妊婦の航空機搭乗に際しての条件は?
答 妊娠初期の航空機搭乗が流産の危険を高めるとするデータはなく、妊娠初期の搭乗に際して航空各社の制限もないようです。しかしながら比較的ゆれや振動の少ない飛行機といえども乗り物酔いが起こることもあり、つわりの時期の飛行機旅行は避けた方がよいでしょう。
また妊娠後期の航空機搭乗に関しても、世界中の航空会社で統一された規定はないようですが、日本の航空3杜(日本航空、全日空、日本エアシステム)を含め多くの航空会社では、妊娠36週までの異常を認めない妊婦の搭乗は特に制限してはいません。しかしながら大韓航空をはじめ、健康な妊婦であっても搭乗可能な時期を妊娠32週までと定め、妊娠32週以降は担当産科医の診断書を必要とする航空会社もあり、特に国際線搭乗の予定を立てるにあたってはこの点を予め確認しておくことが大切です。妊娠36週以降の搭乗に際しては、国内の航空3社を含め殆どの航空会社が医師の診断書を必要としています。妊娠36週以降は搭乗を認めない航空会社もあります。また、妊娠38週以降の搭乗に際しては医師の付き添いを求める航空会社が殆どです。
したがって、妊娠12週以降36週以前(可能であれば28週頃まで)の間に搭乗の予定を立てることが好ましいと考えられます(表2)。また、航空機搭乗が許可されない可能性の高い異常として、出血や腹痛がある場合、切迫流産、子宮外妊娠、習慣流産、切迫早産、前置胎盤、頸管無力症妊娠中毒症、および極度の貧血がある場合(ヘモグロビン値<8.5g/dlや繰り返す血栓性静脈炎の既往がある場合などがあげられます。ちなみに、出生後の新生児については成熟児でも生後7日までは搭乗できず、未熟児の場合は生後7日以降でも制限があります。
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