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(投稿:by 僻地の産科医)
単純ミスは「重大な過失」か
業務上過失致死罪の謙抑的適用はいかにあるべきか
井上清成(弁護士)
http://www.m3.com/tools/IryoIshin/080115_1.html
1.刑罰適用の第1次的利害関係者
業務上過失致死傷罪(刑法第211条第1項前段)などの刑罰の適用は、医療機関自体に対してではなく、医療者個々人に対して責任追及が行われる。この責任は、法律用語では、「非難可能性」ともいう。日常用語ならば、「反倫理性」と言ってもよい。過失犯としての責任なので、その個々人の「不注意」を非難する。
個々人といっても、病院幹部や開業医が対象になることは稀であり、もちろん病院事務局でもない。主な対象は、勤務医と看護師である。つまり、刑罰適用の第一次的利害関係者は、勤務医と看護師であると言ってよいであろう。
したがって、刑罰適用の問題は、勤務医と看護師がまず中心となって十分に議論することが重要である。
2.刑法の謙抑的適用
総論的議論を行う限りは、医療者でも司法関係者でも、医療に刑法(特に過失犯)が謙抑的に適用されるべきことに対して異論はない。もちろん、謙抑的に適用される前提として、民事的な患者救済としての補償や行政的な措置としての行政処分などが適切に行われるような環境整備も重要であるが、これは様々な議論がなされているので今は触れないこととする。
さて、誰にとっても異論のない刑法の謙抑的適用であるが、勤務医や看護師に対する業務上過失致死罪の適用は具体的にいかにあるべきであろうか。
現在、厚生労働省の「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」などでは、「軽い過失」での適用は除外し、「重大な過失」に限定して刑罰を適用すべきではないか、という議論が起きつつある。まだ必ずしも定着していはいないが、ひと昔前、「軽過失であろうと何であろうと処罰すべき」という風潮であった頃に比べれば、随分と進歩したとは思う。
しかしながら、いまだ「重大な過失」の中味は全く明らかになっていない。この中味というか実質こそが、今後の焦点となるべき事柄であろう。
3.単純ミスは「重大な過失」なのか?
現在の司法関係者の認識では、「薬剤とか患者の取り違いといった、いわば単純ミスは『重大な過失』に該当する」ということに異論がないようである。これに対して、医療関係者、特に勤務医や看護師は、いかなる認識であろうか。実は、「薬剤とか患者の取り違いといった、いわば単純ミス」をどのように扱うか、つまり、「重大な過失」と取り扱って処罰するべきか否かということこそが刑法の謙抑的適用の試金石であると思う。
私見であるが実は筆者は、都立広尾病院事件(医師法21条の問題は今は論じない)や横浜市立大病院事件を初めて知った頃より、司法関係者一般の認識に疑念を抱き続けてきた。この疑念は、次のとおりそれこそ極めて単純なものといってよい。
医療者は、疾病を抱えた患者と接し、その疾病と対峙している。疾病はそれ自体、患者が有している生命身体の危険であり、医療者はその患者の既存の危険を消滅もしくは減少させるために、医療を施していかなければならない。しかし、残念ながら、医療自体が既存の危険を消滅・減少させるに足りる科学技術的水準を有していないことも多々ある。
また、既存の危険を消滅・減少させるために、医療自体が時には、別の新たな危険を発生・増加させることもある。患者の既存の危険と、医療の別の新たな危険とが並存し得るのである。もちろん、その医療の別の新たな危険も、患者の既存の危険と同様に、消滅・減少させるべく努力しなければならない。しかし、やはり同様に、常に消滅・減少させられるとは限らず、医療自体の有する別の新たな危険が不幸にも患者に発現してしまうこともある。
このようなそれ自体危険を有する医療を、医療者は、日々無数に、それも後述するように種々の制約された条件下で、常に緊急に施さざるを得ない。いくら資格を有する医療者といえども人間であり、ちょっとしたミスは当然に生じ得る。恐いのは、ちょっとしたミスであればあるほど、時に、患者に死亡というような重大な結果を引き起こしかねない。そのような場合、ちょっとした基本的ミスだからこそ、死亡という重大な結果だからこそ、「重大な過失」と評価され業務上過失致死罪が適用されて、その医療者個人に犯罪者という烙印が押されてしまう。
本当に、その医療者個人は刑罰によって処罰されざるを得ないのであろうか。
4.患者危険消滅途上論
私見では、薬剤取り違いや患者取り違いに代表される、いわゆる単純ミスによる患者死亡事例は、「重大な過失」という名目で業務上過失致死罪を適用すべきではない。こうしてこそ、名実ともに、刑法の謙抑的適用の帰結であろう。
そもそも医療は、患者の有する既存の危険(疾病)に直面し、好むと好まざるとにかかわらず(応招義務)、現在与えられている諸々の制約された人的・設備的・財政的・時間的その他の条件(医師不足、過重労働、検査体制の不備、承認薬不足、緊急性など列挙しきれない)の下で、不確実なまま実施せざるを得ない。必ずしも現在の科学技術水準の医療では、既存の危険(疾病)を消滅・減少させること(治癒)ができるとも限らず、その意味で、現在の医療はそれ自体、患者の危険の消滅の途上にあると考えることができるのではないか。これを仮に「患者危険消滅途上論」と名付けるとしよう。
この患者の危険(疾病)を、今もって医療自体が途上にあるために消滅(治癒)することができなかったとしても、その危険は医療者が作り出したものではない。そこで、医療者に危険責任を問うことは不当である。
5.医療危険消滅途上論
同様に、医療そのものも、「危険消滅途上」にあると考えられるであろう。こちらの方は、仮に「医療危険消滅途上論」と名付けることとしたい。
すなわち、「患者危険消滅途上」の医療が、それ自体やむを得ず、「医療危険」を新たに作り出し、システムとしての医療の安全性の向上を目指しつつも、いまだその作り出した「医療危険」を消滅させることができずに途上にあるということである。
例えば、医療者のちょっとした単純ミスですぐに患者が死亡してしまいかねないというシステム、それ自体がシステムとしての「医療危険」であって、その危険なシステムが改善途上であって、いまだその危険を消滅させられていない。そのため、何万分の一か何十万分の一かわからないが、その確率で医療者の単純ミスが起こって、患者が死亡してしまう。患者も当然不幸だが、そこに偶然遭遇した医療者も不幸である。その際、医療者を「重大な過失」として処罰すべきなのであろうか。もし仮に処罰することができるのだとしたら、むしろ、いまだ「医療危険」を消滅させることができなかった当該システム自体を処罰すべきなのではないかとさえ思う。
6.医療危険消滅途上での刑事処罰
医療者のちょっとした単純なミスで直ちに患者が死亡してしまうシステムは、正にシステム自体の危険性である。そのようなシステムの中にやむを得ず置かれ、偶々、システム危険を表面に露呈させる当事者になってしまった、その一当事者たる医療者を、「重大な過失」があるとして処罰し、個人責任を追及して犯罪者とするのは、不当であると思う。だからこそ、医療者を過失犯処罰の対象とすべきではない。
しかしながら、往々にして人々は、患者死亡という重大な結果や、薬剤確認もしくは患者確認という基本中の基本事項の怠りなどの悲劇的事態に憤慨し、医療者個人への処罰に向かい勝ちである。その処罰感情の前では、患者危険消滅途上もしくは医療危険消滅途上といった医療システムの性質は、全く顧慮されない。
例えば、ある薬剤を色分けすれば、取り違いを防止できるであろう。手術患者にバーコード付きリストバンドを付ければ、取り違いを防止できるかも知れない。再発防止にとって重要なのは、事故事例をもとにして再発防止策を案出し実施することである。再発防止策が実施されさえすれば引き起こさずに済んだであろう事故の一当事者たる医療者を、本当に処罰する必要があるのであろうか。また、当該医療者を処罰したいと願う事故被害者の処罰感情、ひいては国民の処罰感情は、その当該医療者個人に対してどこまで正当化できるのか疑わしい。刑罰が応報だとしても、当該医療者には処罰に値するほど非難可能性が、本当に強くあるのだろうか。
すべては、再発防止策の案出・実施が途上であったことも含め、医療のシステム自体の危険消滅途上性に帰責すべきことであると思う。かろうじて過失犯処罰に値するものがあるとすれば、患者危険消滅途上性や医療危険消滅途上性とは何らかかわりのない重大な過失犯、例えば故意犯的な酷い医療ミスくらいのものであろうか。そうしてみると、危険消滅途上の医療システムの中で努力していた一医療者をさらし者にして、「重大な過失」の名目の下で単純ミスに対して過失犯処罰をしようとする方向は、当を欠くものであろうと考える次第である。
〔注〕患者危険消滅途上論や医療危険消滅途上論といった用語は、筆者が本稿で初めて使った造語である。今後は、これに法律用語としての基礎付けを与えていきたい。
井上 清成(いのうえ きよなり)氏
1981年東京大卒。81年弁護士登録(東京弁護士会所属)。89年井上法律事務所開設、2004年医療法務弁護士グループ代表。病院顧問、病院代理人を務める傍ら、医療法務に関する講演会、個別病院の研修会、論文執筆などの活動に従事。現在、日本医事新報に「病院法務部奮闘日誌」を、MMJに「医療の法律処方箋」を連載中。
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