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(投稿:by 僻地の産科医)
患者とスタッフを守るために
大友陽子・感染管理看護師
朝日新聞 2009年3月23日
http://www.asahi.com/health/essay/TKY200903170113.html
「うーっ! 目にしみる。息も苦しい~」
「何言ってんのぉ。感染防止対策なんだから我慢してていねいにやりなさい」
感染症患者が使った病室や手術室で、室内くまなく目張りした後、強力な消毒薬を部屋中に噴霧して数時間閉鎖する作業を、看護師らがしていたのは、ほんの十数年前のことです。いまでは作業者の安全確保のために特殊マスクやゴーグルまで着用が強く推奨される強力消毒薬を、当時どれほど安易に使っていたことでしょう。こんな作業に感染防止対策の効果はあったのでしょうか……。
医療機関における感染対策は、この10年間に大きく様変わりしました。療養環境にある病原微生物を消毒薬や紫外線などを利用して殺滅することを主体とした対策から、その病原微生物が患者さんに波及していく経路の遮断に焦点をあてた対策へと変化したのです。
院内感染がなぜ生じ、広がるのかを考えたとき、運んでいるのはほかならぬ医療スタッフの手指であることを直視し、患者さんの安全と、媒介役となる医療スタッフの安全を相互に確保することこそ、真の感染対策につながる。こんなことを再認識した結果であると思います。
■変わりゆく感染対策
以前は、患者さんの感染症の診断がついたら、その日から突然その病室に入る際に靴を履き替えたり、粘着性の強い特殊なマットを病室の出入り口に敷いたり、といった光景が見られたものです。また、ICU(集中治療室)での面会の際には、面会者は帽子やマスクを着け、紫外線ロッカーから布製エプロンを出して着用して、所定のスリッパに履きかえて入室するルールがありました。実際に病院でそのような経験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。当時は、面会者の衣類や履物に付いた病原微生物も院内感染の主因になると考えられていたからです。
いま、それらの対策は、ことごとく姿を消しました。ICUでの面会時には、手洗いを求められますが、ほかには発熱や下痢といった面会者自身の健康状態を確認されるだけの医療機関が多いのではないでしょうか。
「感染対策にも流行がある」というわけではありませんが、いまは手や指を清潔にして患者さんに接すれば、履物に付いた病原微生物が患者さんの感染に影響することはほとんどないと考えられているからです。感染対策として科学的根拠のあるもの、つまり、多くの研究や検証によって感染率を下げることや院内感染の伝播(でんぱん)を遮断する効果が評価、確認された対策の導入へと進んでいったのです。
■感染対策の推進力
過去の感染対策は、それぞれの医療機関の方針や慣習などによって手順が決められており、病院や病棟ごとに対策が異なっているということも珍しくありませんでした。これに対し、近年、米疾病対策センター(CDC)で出される勧告の存在が国内で知られるようになりました。CDCの勧告は、多くの文献やデータに基づき作成されているため、世界共通の指標とされています。こうした欧米での感染対策に関する研究や技術、情報がインターネットの普及とともに広く国内にもたらされ、国内の流れも大きく変わりました。
欧米の情報から、検査で感染症が判明してから感染対策を開始していたのでは、判明するまでの期間に伝播拡大が起きてしまう危険性が認識されるようになりました。欧米のガイドラインでは、未知の病原体には太刀打ちできないことが提起され、感染症の有無にかかわらず、すべての患者さんを対象に常時実施すべき標準的な感染対策が明示されていました。
さらに、日本でも2000年以降、医療機関における感染対策を推進するために、ICD(感染制御医師)や、感染管理認定看護師、感染制御専門薬剤師、感染制御認定臨床微生物検査技師など、感染対策に関連する資格制度が設けられました。医療機関内のあらゆる職種のリーダーが感染制御チームを結成して連携推進していく体制が整いました。これにより、患者さんを取り巻く療養環境に関与する全医療スタッフが、同じ方針、同じ手順で感染対策を順守し、患者さんへの感染防止に取り組めるようになってきました。
■医療スタッフばかり守っている?
私の勤務する東京女子医大病院には、毎日約4千人の外来患者さんがお見えになります。その約半数の方が血液検査のために中央採血室に来られます。
採血を行う臨床検査技師が全員手袋を着用していることに対し、「医療スタッフを守るために手袋をしている」と患者さんからおしかりを受けたこともありました。また、毎冬、インフルエンザシーズンには、患者さんに直接接触する医療スタッフは常時マスク着用で就業するという対策を講じていますが、これにも同じようなご意見をちょうだいすることがありました。
ただ、一見、医療スタッフの安全確保に見えるこれらの対策も、実は患者さんの安全確保に密接につながっていることをご理解ください。病原微生物は目に見えず、感染してもすぐに症状の出ない感染症も数多くあります。私たちが病原微生物の運び屋にならないよう、また、万一、医療スタッフが感染していても、ほかの患者さんにはうつさないように実施している対策のひとつなのです。
一方で、多くの医療機関では、医療スタッフの麻疹(はしか)や水痘(みずぼうそう)、風疹(三日ばしか)、流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)などに対する抗体を獲得するため、数年前からワクチン接種を積極的に推進しています。若い医療スタッフを中心にこれらの抗体を持ち合わせていない人が増加していたためです。これも、診療を通じて麻疹などに感染した医療スタッフから、さらに多くの患者さんに広がることのないよう推進すべき重要な感染対策のひとつなのです。
■付き合ってくれない診療報酬
感染対策を推進していくには当然経費も必要になります。マスクや手袋などの感染防具は、1度使用したら廃棄します。このため、1日の消費量は膨大な数に上るうえに、医療ごみとして廃棄にかかる費用も膨らみます。
また、医療スタッフに抗体獲得させるワクチンにも費用が発生します。患者さんの安全確保に通じるこれらの感染対策を徹底・推進すればするほど、経費は膨らみますが、現在の診療報酬は、これにほとんど付き合ってくれていないため、医療機関の負担になっています。さらには、先進医療に使われる単回使用の医療器材も、その器材価格より診療報酬のほうが安価なものが少なくなくありません。その先進医療を実施すればするほど医療機関は持ち出しになるという矛盾が生じています。
それゆえ、本来、一度使ったら廃棄しなければならない器材を、滅菌再生処理して複数回使おうとするような危険につながるのです。滅菌再生処理しても初回と同じ機能性、安全性を保証するものではなく、再生処理方法によっては、その器材が汚染されて院内感染の媒介になるリスクも伴います。どの医療機関でも、患者さんの安全第一として感染対策徹底に苦心していますが、その舞台裏は費用対効果の真剣勝負になっているのです。
■これからの感染対策
抗インフルエンザ薬タミフルが効かない耐性インフルエンザウイルスが広がっていますが、抗菌薬や消毒薬の有効性の低い細菌やウイルスが次々と挑戦してくると思われます。地球温暖化によって、今までの日本では発生をみない感染症が流行することも懸念されています。各医療機関では、感染制御チームが一致団結し、最新情報に目を光らせて、患者さんと医療スタッフの相互の安全確保をめざし、最少の費用で最大限の効果につながることを念頭に、努力を続けていくことになるでしょう。
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大友 陽子(おおとも・ようこ) 1982年、広島大医学部付属看護学校卒。84年から東京女子医大病院手術室に勤務。96年に同病院看護部に配転し、専任感染管理看護師として活動を始める。2001年に日本看護協会感染管理認定看護師の資格を取得。03年から同病院感染対策部感染管理看護師長。日本環境感染学会理事も務める。
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