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(投稿:by 僻地の産科医)
日本医事新報No. 4418(2008年12月27日号)より
世界同時不況と日本の医療・社会保障
日本福祉大学教授 大学院委員長
二木 立
(日本医事新報No. 4418(2008年12月27日号)p76-79)
はじめに
しのびよる世界同時不況が、日本の医師・医療関係者にも暗い影を落とし始めた。
2007年後半にアメリカで生じた住宅バブルの崩壊は、本年後半には「100年に一度〔グリーンスパン元連邦準備制度理事会(FRB)議長〕と言われる世界金融危機に拡大した。それはすぐに実体経済にも波及し、今や世界回時不況の様相を呈し始めている。本年7~9月期に、先進国(日米欧三極)の実質経済成長率がすべてマイナスに転じたのに続いて、OECDはい11月13日、三極のマイナス成長が2009年も継続するとの「経済見通し」を発表した。
それに伴い、各国政府の税収が大幅に落ち込むことは確実であり、中川昭一財務・金融大臣は11月21日に、本年度の税収は、当初予算の見積もり(53・5兆円)を6~7兆円も下回るとの見通しを発表した。これに先だって、麻生太郎首相も10月30日の「追加経済対策」の発表時に、「日本経済は全治3年という基本認識」を示している。
このような厳しい経済状況に直面して、医療関係者には、今後は、税収不足に加え、増税や社会保険料の引き上げも困難になり、医療・社会保障費の財源が確保できなくなるとの悲観論が強まっている。2010年の診療報酬改定がマイナス改定になるとの気の早い予測をしたり、未曾有の大不況が起これば、医療機関の大幅受診抑制が起きると危惧する専門雑誌も現れている。さらには、小泉政権時代の厳しい医療・社会保障費抑制政策が復活することを懸念する声も聞かれる。
私も、このような悲観的見通しには一理あると考える。今後不況がさらに深刻化すれば、11月4日に発表された「社会保障国民会議最終報告」で打ち出された「社会保障の機能強化」に不可欠な財源確保の大きな足かせになることは間違いない。しかし、私は単純な悲観論には与せず、それとは別のもっと積極的な(少なくとも現状より悪化することはない)可能性があることも見落とすべきではない、とも考えている。
本稿では、このような複眼的視点から、世界金融危機と世界同時不況(以下、匪界同時不況と略す)が今後の日本の医療・社会保障に与える影響を巨視的に考えたい。
世界同時不況が明らかにしたこと
その前に、今回の世界同時不況が明らかにしたことを、本題に即して、簡単に3点指摘したい。世界同時不況が全世界の国民・社会に重夫な否定的影響を与えていることは確かだが、それがもたらした肯定的側面も見落とすべきではない。
第1は、1980年代以降、世界経済を理念的・政策的に主導してきたアメリカ流の市場原理主義・新自由主義の破綻が誰の目にも明らかになったことである。それにより、今後は、経済政策の基調が、規制緩和(市場原理の純化)から規制強化(政府の適切な関与)へと転換することは確実である。
この点で象徴的なのは、今やアメリカの金融危機の戦犯と批判されているグリーンスパン元FRB議長自身が、金融機関が自己利益を追求すれば株主を最大限に守ることになるという自己の経済哲学が「間違っていた」と公式に認めたことである(10月23日のアメリカ下院監視・政府改革委員会の公聴会)。
11月15日に発表された主要20カ国主脳会議(G20金融サミット)の「宣言」が、総論レベルではあるが、金融規制の強化で一致したことは、経済政策の潮目の変化を象徴している。これが即、社会保障重視の「大きな政府」への転換を意味するわけではないが、世界や日本で新自由主義が推進してきた「小さな政府」の流れに歯止めがかかることは確実である。
第2は、世界金融危機により、経済の枠を超えた「アメリカ一極支配体制」が終焉を迎えたことである。
政治・軍令面でのアメリカの一極支配体制は、無謀なイラク・アフガニスタン(侵略)戦争の失敗により崩れていたが、世界金融危機は経済面でのアメリカの一極支配体制を突き崩すことになった。11月4日のアメリカ大統領選挙でのバラク・オバマ候補の当選はアメリカ国民のこの面での「内部革新」の動きを象徴するし、来年1月にオバマ政権が成立すれば、現在よりも多極的な政治・経済体制への移行が生じる可能性がある。
第3に、学問的・理論的に重要なことは、「効率的市場仮説」に基づき、規制のない自由市場による経済活動の自動調節・均衡を絶対化して、政府の財政政策の役割を否定し、「小さな政府」を理論的に支えてきた主流派経済学(新古典派経済学)の行き詰まりが明確になったことである。
それに代わり、今後は、市場の役割を認めた上で、政府や社会保障制度の積極的役割を重視する制度派経済学(ケインズ経済学を含む)の復権が進む可能性が大きい。このような学問潮流の変化は、医療・社会保障の拡充政策を学問的に支えることが期待される。
本年のノーベル経済学賞(正確には、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞)を、主流派経済学を厳しく批判し続けてきたアメリカのリベラル派のポール・クルーグマン教授が受賞したことは、世界経済と経済学の両方での潮目の変化を象徴していると言えよう。なお、同教授の新著『リベラル派の良心』(the Conscience of a Loberal. 邦訳は『格差はつくられた』早川書房、2008年)は、アメリカ大統領選挙における民主党候補の勝利を展望した「アメリカ改革の書」であり、それの最優先の課題が国民皆保険制度の確立とされている。
世界同時不況が日本の医療・社会保障に与える影響
以上3点を踏まえた上で、今回の世界同時不況が、今後の日本の医療・社会保障に与える影響を、確度の高い順に4点述べたい。
1 新自由主義的医療改革の復活はない
第1に確実に言えることは、小泉政権時代に試みられた医療分野への市場原理導入(新自由主義的医療改革)が復活することはあり得ないことである。
この政策の中心は、株式会社の医療機関経営の解禁と混合診療の全面解禁であり、小泉政権発足直後の2001年6月に閣議決定された「骨太の方針」に初めて盛り込まれた。しかし、小泉政権の下でさえ、それの全面実施は見送られ、ごく部分的実施にとどまった。その最大の理由は、医療分野への市場原理導入により、関連企業の浴場は拡大する反面、総医療費・公的医療費とも増加することになり、医療費抑制という「国是」に反するからだった〔詳しくは、拙著『医療改革と病院』(勁草書房、2004年)、『医療改革』(勁草書房、2007年)参照〕。
上述したように新自由主義が国際的に挫折していること、および小泉政権時代と異なり、新自由主義的医療改革の全面実施を主張する有力組織がもはや存在しないことを考えると、不況と税収滅が長引く中で、医療費増加を招く新自由主義的医療政策が復活することはあり得ない。
2 社会保障費抑制の数値目標は見直される
第2に、ほぼ確実に言えることは、小泉政権の置きみやげと言える「骨太の方針2006」中の厳しい社会保障費抑制の数値目標(2007年度以降5年間、社会保障費の自然増を毎年2200億円抑制する)が、来年度公式に見直されることである。次の総選挙で政権交代が生じ民主党政権が誕生した場合はもちろん、自公政権が継続した場合にもほぼ確実に見直される。
その最大の理由は、2006年以降、医療危機・医療崩壊が社会問題化したために、医療・社会保障の拡充を求める国民の声が強まっていることである。この点で注目すべきことは、小泉政権時代には医療・社会保障費抑制を支持していた全国紙が、2006~2008年に、すべて医療・社会保障の拡充支持または容認に転換したことである。「日本経済新聞」は他紙と異なり、社会保障の拡充をまだ直面から主張してはいないが、社会保障国民会議が10月23日に、従来の医療・介護費用の抑制方針を転換し、それを拡充する「シミュレーション」を発表したとき、それを111面から否定せず、「政府推計も参考に医療改革の道筋を」との「社説」(10月26日)を発表した。
実は、「骨太の方針2006」の数値目標が厳密に守られたことは一度もなく、2007年度、2008年度とも、数値目標の枠外とされている補正予算に高齢者医療制度の見直しを中心とした社会保障費がそれぞれ2000億円前後計上されていた。尾辻秀久元厚生労働大臣は、この点も踏まえて、「『2200億円削減』廃止はもう勝負がついた」と明言している(本誌10月18日、第4408号)。麻生首相の強い意向を受けて、経済財政諮問会議で、小泉政権時代の社会保障費抑制一辺倒から「中福祉・中負担の社会保障制度」への転換が目指されているのは、その布石と言えよう。
来年度は今年度に引き続き、大幅な税収減が予想されるが、「追加経済対策」の目玉として、経済効果が不透明な定額給付金に2兆円ものにに費が充当できたことを考えると、それの10分のIにすぎない2200億円の捻出は十分吋能である。
3 内需主導経済への転換で社会保障拡充の可能性
第3に、やや期待を込めて言えることは、今後、日本が外需依存の経済構造から内需主導の経済構造に転換する際に、医療・社会保障の拡充が内需拡大の服要な柱の一つとされる可能性があることである。
麻生首相は、G20に際して発表した「危機の克服 麻生太郎の提案」中の「中期的な金融危機防止策」で、「過剰消費・借入依存の国〔=アメリカ〕における過剰消費抑制策と、外需依存度の大きな国〔=日本・中国など〕における自律的な内需主導型成長モデルヘの転換」を提案した。これにより、「内需主導型成長」は日本政府の国際公約となった。
実は、内需主導経済への転換は1980年代後半以降も試みられたが、当時はその柱が公共事業とされた。しかし、それがもたらしたのは国土の荒廃と政府債務の巨額な累積であった。この失敗を考慮すると、もし今後医療・社会保障拡充を求める国民世論が高まった場合には、医療・社会保障が新たに内需拡大の収要な柱の一つとされる可能性がある。私はその鍵は、「医療・社会保障拡充の財源についての国民合意の形成」と「医療費の自己改革による国民の医療への信頼の回復」であると考えている〔詳しくは、「医療改革 希望の芽の拡大と財源選択」(本誌5月3日、第4384号)参照〕。
医療・社会保障は小泉政権時代には経済成長の制約条件とみなされ、厳しく抑制された。それに対して、『平成20年版厚生労働白書』(本年8月公表)では、逆に、社会保障の経済効果は相当高いこと、具体的には社会保障関係事業(医療、保健衛生、社会福祉、介護、社会保険事業)の「生産波及効果」は全産業平均より高く、「雇用誘発効果」は他のどの産業よりもはるかに高いことが計数的に示されている(28~32頁)。これは、厚生労働省が医療・社会保障拡充政策への転換を展望して打ち出した布石と言える。
来年1月に発足するアメリカのオバマ新政権は、日本よりはるかに深刻な金融危機・不況脱出のために、大胆な財政政策を採用し、それには医療・社会保障拡充政策が含まれる可能性が高い。それが日本の医療・社会保障拡充への追い風になることも期待できる。
この点で注目すべきことは、かつては竹中平蔵氏らとともに、小泉政権の「市場主義」・「小さな政府」路線を推進してきた伊藤元重氏(東大教授)が、アメリカ大統領選挙の結果を受けて、従来の主張を180度変え、「『大きな政府』日本も追随を」―「そのためには、年金・医療・介護などの社会保障を充実させることが有効である」と主張し始めたことである(「日経流通新聞」11月12日)。
なお、日本ではオバマ次期大統領が選挙期間中に国民皆保険の実現を公約したとの報道が散見されるが、それは眼しくない。現実主義者のオバマ氏は、選挙期間中、「小児皆(医療)保険」の即時実施は公約したが、日本やヨーロッパで実施されているような強制加入の国民皆保険制度は提案していないからである(「オバマ・アメリカ次期大統領の医療制度改革案を読む」『文化連情報』2008年12月、第369号)。
4 世界大恐慌の再来がないことが大前提
以上、やや楽観的な見通しを述べてきた。ただし、これらの予測には大前提がある。それは、今後世界同時不況が相当長期間続いたとしても、G20に代表される先進国・新興国の国際協調により、1929年の世界大恐慌の再来が食い止められることである。
万が一この前提が崩れ、再び世界大恐慌が生じた場合には、小泉政権時代よりもはるかに厳しい医療・社会保障費抑制策が強行されるだけでなく、大量失業と給与の大幅引き下げにより医療需要(国民・患者の医療機関受診)も大幅に落ち込むため、医療機関の経常破綻が多発するであろう。
これが第4のきわめて悲観的な見通しである。しかし、その可能性は現時点ではきわめて小さく、それを既定の事実とみなして「地獄のシナリオ」を語るべきではない。
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