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(投稿:by 僻地の産科医)
MTProから(>▽<)!!!
上先生のインタビューでお届けします。
2008年の医療問題,心に残ったTOP6
-世界的潮流の変化に日本も乗った―
篠原 伸治郎
MTpro 記事 2008年12月18日掲載
http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtpronews/0812/081218.html
今年(2008年),さまざまな医療に関連する問題が,大きな話題となり国民も医療界の実情を知るようになった。医療ガバナンスの研究を行っている東京大学医科学研究所(先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携部門)特任准教授の上昌広氏に,医療界にとってのこの1年を振り返ってもらった。心に残った医療問題,それらの医療界・政界への影響は…。
医療再生という旗幟が鮮明になった
-“小さな政府”の旗印のもと,医療費も抑制されてきたが
上氏は,医療界に起きたさまざまな問題について,今年印象に残ったTOP6を次のように提示(表)。「悪いことばかりではなかった」と感じている。
同氏は,これら6つの事象について,その意義,あるいは問題点,今後の展開予想などを次のように示した。
「この裁判で検察が控訴しなかった意義は大きい。それを後押しした最大の要因は世論であった。そしてその世論に影響したのが,“医療者たちの声”であり,それを伝えたマスメディアの報道だった。特に医療専門のオンラインメディアは,2006~08年にかけこの問題を報道し続けたため,結果として医療者間の風通しが大きく改善した。
現在,日本医師会や日本医学会の影響力が相対的に低下し,現場の若い医師たちの声が世間に届くようになったことを医師たちだけでなく,社会も実感している。“情報革命”が医療界の再編を促した事例だったと考える」
「8月27日の『安心と希望の医療確保ビジョン具体化に関する検討会』で医学部定員の5割増(1万2,000人への増加)が決定された。1980年代,西側先進国は新保守主義が主流で「小さな政府」を目指した改革が進められた。わが国では1983年の中曽根康弘内閣による医療費抑制方針の決定のもとで,1984年にスタートした医師数の量的規制が,舛添要一厚生労働大臣により25年ぶりに撤回され,非常に大きな意義があった。
医師養成数が増加に転じれば,医学部教官も当然増加させることになり,来年(2009年)には医学部教育の再編も余儀なくされるだろう。現在の医学部教育のカリキュラムは明治期に作られたものがベースとなっており,その後,医療政策,医療経済,医事法,医療コミュニケーション,医薬品診査,薬学や介護など,新しい分野が発生しているが,これらに現在のカリキュラムは対応していない。
医学部定員増によって,この議論は来年以降医療界でも俎上に上がる。山形大学(脳神経外科・救急部)教授の嘉山孝正氏などが同大の医学部教育カリキュラムに導入を始めており,そうした萌芽となっている」
「東京圏では,都立墨東病院や杏林大学病院など,妊婦の受け入れ不能問題が続いて発生した。なお,東京都全体でみると,人口千人あたりの医師数は約2.8人で,独仏の3.4人には及ばないが,英米などアングロサクソン系諸国の平均2.1~2.7人に比べればひけは取らない。つまり大きく医師が不足しているわけではない。
しかし,オリンピック開催誘致ができるほど財政が豊かな東京都で妊産婦の受け入れ不能問題が起きた。東京都の医療体制に関心が寄せられた結果, JR山手線内や板橋区,大田区などには大病院が集中しているが,東部の江戸川区,墨田区,あるいは西部でも練馬区,武蔵野市などで人口当たりの医師が不足していることが明らかになった。地域による偏在は明らかだ。例えば江戸川区は0.9人だが,これは大学医学部卒業生の少ない東北地方の平均よりも低い。
では,なぜこのようなことが起きたのか。1985年の第一次医療法改正に伴う医療計画の制度化以降,病床数が大きく増えなくなったからだ。1980年代以降,人口の増加した地域と人口当たりの医師数の低い地域というのは地図上で見ると重なっている。1980年代以降,日本で人口が急増したのは東京圏だけだが,人口が多くて医師が少ないという皮肉な状況ができあがってしまった。東京都では,医療計画は都知事に裁量権があるが放置されてきた。
1985年の医療計画制度化以降,『病床数の規制』が行われ,本来,人口の増加に伴い医療法人や私立大学が病院を設置するという自己調節機能があったのだが,これが阻害されていたことが分かってきた。現在,その因果関係は国民の知るところとなりつつある」
「医療費が不足していることは,国民全体のコンセンサスになりつつある。今年,自由民主党,民主党という2大政党の示したマニフェストに認識の差が現れた。民主党は国家予算のなかで,医療・介護費の1.9兆円増を示した(PDF参照)。自民党はそれまでの医療費年間2,200億円抑制策について一時凍結というもので,スケールも違う。
医療費については,(1)負担増,(2)税の無駄な支出から補填する-の2者のどちらを取るかという点で国民のコンセンサスに至っていないので,来年に議論が起きるだろう」
「医療事故調査委員会設置(事故調)に向け,意欲的なのは厚生労働省(厚労省),日本医師会,自民党厚労族の議員など。しかし,医療専門サイトの行ったアンケートでは,1万人のうち厚労省案支持は14.3%にとどまり,41.5%が民主党による対抗案を支持している。医師を抽出したものでも,その比率はほぼ同様で,これが医師の世論と言えるだろう。これは,現場の医師は事故調設置自体に反対しているのではなく,厚労省が提案した仕組みよりも民主党の仕組みを評価していることを意味する。
このような状況のなかで,厚労省・自民党が強引に政府案として,医療事故調法案を提出しても,現在参議院で否決され衆議院に戻される可能性が高く,総選挙が近いとされているなか,実現性は限りなく低い。まして現在,与党全体が混迷しており厳しい状況だ」
「また,先述の厚労省関係者(舛添厚労大臣は除く)とそのシンパが対応を間違えた。この問題では,日本医学会主催の公開シンポジウムで医師たちに踏み絵を踏ませたが,結果的に今までの医師の総意決定システムに問題があることが露呈した。
日本医師会は,これまで開業医の代表という色合いが強く,診療報酬の見直しを行う中央社会保険医療協議会(中医協)などの委員にも多くの開業医を送り込んできた実績があった。この度の公益法人制度改革では,日本医師会にも医師全体への公益性が求められることになり,勤務医の意志も反映させないと認められなくなる。日本医師会も変革を求められている状況だ」
6「県立柏原病院の再生に向けた動き」(参考リンク1,参考リンク2)
「これも2008年を象徴する大きな動きだった。県立柏原病院(兵庫県)の小児科を守ろうという母親たちの動きが,全国各地の母親たちに影響した。社会の関心も高まり,『知ろう!小児医療 守ろう!子ども達』の会・会長の阿真京子さんのような方が社会で取り上げられるようになった。この件も丹波新聞社という地方紙の報道に端を発し,業界メディア,一般メディアに広がり,やがて日本各地に地域医療を守る運動を発生させた」
オバマ大統領の誕生と舛添厚労相の舵取り
-世界的趨勢に2008年日米もようやく
ここからは,マクロな視点に立ち,上氏に世界と日本の医療政策・制度の近年の歩みの概説と2008年の医療界の位置づけをしてもらった。それによると,日本の現在の医療制度は,1980年代前半の政治状況に大きな影響を受けているという。
それまで米国ではニューディール政策,英国では「揺りかごから墓場まで」という高福祉,日本では国民皆保険制度の整備など,“大きな政府”のもと政策が進められてきた。ところが1980年代にレーガン大統領,サッチャー首相,中曽根康弘首相らによって“小さな政府”を目指すという反動がおき,「医療費亡国論」などもそうした政府改革の一環として現れたという。
日本では1983~87年まで,中曽根首相が政権の座に就き,戦後最大の行政改革を行った。厚労省は1985年に第一次医療法改正を行い,医療供給の「量的規制」を開始,病床数についてもこの時期にほぼ固定された。欧米先進諸国は1980年代から約30年,小さな政府を目指し,資本主義は確かに発達した。一方でソビエト社会主義共和国連邦は崩壊に向かった。
その後,1993年に米国ではクリントン大統領が就任した。米国のその当時の社会情勢では,IT改革と情報公開が進んだことが特徴だ。ただし,情報公開の結果,米国医療界では,“医師誘発医療費”の学説が否定され,医師が増えても医療費が増えないことが明らかになった。これを機に米国などでは医師養成数増加に転換した。また,ヒラリー・クリントン氏が,成立はしなかったものの国民皆保険政策を打ち出したことも,この時代を反映している。
上氏は「1983年の『医療費亡国論』に基づき,その後厚労省などが行った医療政策は,当時の時代背景のなかでは間違っていなかった」という。ただ,日本では,IT改革と情報公開を経ても,バブル崩壊あるいは公共事業重視という背景があったため,医療費抑制からの転換に目も意識も向けられなかった。
同氏は「2008年はこれが明確に変わった」という。
特に追い風となる1つの大きなポイントは米国でオバマ大統領が誕生したことだ。同大統領は,ブッシュ政権とは異なる政策を矢継ぎ早に打ち出している。
日本でも,現在,医療費について民主党案が1つの議論になっている。
上氏は「舛添厚労大臣の感覚は,オバマ大統領や英国で医療費抑制策を転換したブレア首相に似ている」と指摘。「英国は米国より医療崩壊について気づくのが10年早かった。米国そして日本でも,世界的趨勢である“再生に向けた医療改革”が起こりはじめたのが2008年だと考えている」と分析している。
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