(投稿:by 僻地の産科医)
医療を受ける子どもにも説明を
増子孝徳・弁護士(のぞみ法律事務所)
朝日新聞 2008年10月20日
http://www.asahi.com/health/essay/TKY200810140150.html
増子孝徳(ましこ・たかのり)
弁護士・のぞみ法律事務所(宇都宮市)。1968年生まれ。一橋大学法学部卒業。日本弁護士連合会人権擁護委員会委員を務め、2007年から同委員会医療部会長。小学校6年生と2年生の子がいる。
私が所属する栃木県弁護士会では、医療を受ける子どもの人権に着目し、2003年に研究会を作った。小児科のある病院を見学したり、医師を始めとした小児医療関係者、患者、元患者、親らから聞き取り調査をしたりして、05年にシンポジウムを開き、07年11月にはそれらの成果を「医療における子どもの人権」(明石書店)として出版した。その中で、子どもが病状や治療方法について年齢や理解度に応じた方法で説明を受けているのか、というのは重要なテーマであった。
私にも小学生の子どもが2人いる。その限られた経験による印象でしかないのだが、小児科医は説明が丁寧である。親の私が弁護士だから警戒しているのかと思ったりもしたが、私自身が同じ病院の別の科にかかってみれば、こちらに顔も向けず、机の前に掲げた写真を見ているか、カルテを書きながら、独り言を言っているような様子で、結論だけをぼそっと告げる医師に当たることが少なくないから、どうやら私が弁護士であることは何の効き目もないのである。小児科医は説明が丁寧だという私の印象は、あながち的外れでもないようだ。
■医師の思考プロセスを追う
説明が丁寧であるというのは、あらゆる情報を等価値に羅列し、ああいう可能性もあります、こういう可能性もありますと予防線を張り巡らせることではない。私が丁寧だと思うのは、診断であれ、治療方法の選択や提案であれ、結論に至るプロセスが順を追って説明されたときである。 そうした説明は、患者側が医師の思考を追いかけることを可能にする。患者と医師の情報格差が実質的な意味での没コミュニケーションを来しているとするなら、医師の思考を追いかけることによって、その限られた範囲においてではあっても、実質的なコミュニケーションを回復できるような気がするのである。
だから、結論に至るプロセスが整理され過ぎていると、効果は半減する。途中で迷ったり、疑問に思ったりしたなら、そのことも話してほしい。患者にとっても質問のきっかけとなる。質問しなくてもよい。医師による一方的な説明を脱し、双方向であるべきコミュニケーションが回復するのではないだろうか。迷っていることを患者に気取られてはいけないと考える医師は多いだろう。患者もまた、迷いをみせる医師に不安感を持つかもしれない。確かに、どうしてよいか分からないというのでは困る。
しかし、私は自信満々に決め付けられる方がもっと不安である。自信満々に決めつけてしまった手前、見立て違いを認識しても明らかにできず、適切な治療方法への変更をためらうようなことはないか、心配だからである。判断のプロセスをともに認識していた方が、それを修正することもまた、患者と医師の協働となり得ると思うのである。
■子どもへの説明
ところで、医療において、患者が自己の病状、医療行為の目的、方法、危険性、代替的治療法などにつき、正しい説明を受け、理解した上で自主的に選択・同意・拒否できること、すなわちインフォームド・コンセントは基本的な患者の権利とされている。 ところが、小児医療においては、医療を受ける患者と、説明を受けて選択等を行う者が一致しない。前者は子ども自身であり、後者はその親(家族)である。
例えば、検査を行い、結果を後日説明する場合、医師は親だけが来ればよいと言い、親も自分だけが行けばよいと思うことがある。子どもが学校などを休まなくて良いように、という配慮からでもあろう。しかし、大人の患者の場合に、仕事を休まなくても良いように家族だけが結果を聞きに来ればよい、とは言わない。やはり、子どもに説明する必要はないという意識が、医師と親の双方にあると言うべきである。 このような認識は、まず、医療行為の決定は子ども自身ではなく、親が行うとの考えが前提となっている。その上で、病状や医療行為の内容などの説明は、医療行為を選択したり、同意したりする者に対して行うことこそが必要であるという考え方に基づいている。極端に言えば、医療行為を選択したり、同意したりしない者(あるいはできない者)に対しては、たとえそれが患者自身であったとしても、説明は不要であるという考え方である。
どんな法的根拠によって親が説明を受け、決定に関与するのかということについては、「親権者だから」という一言で済ませられるほど単純ではない。決定の主体が親であるのか、子ども自身であるべきなのかは、ひとまずおいておく。私が言いたいことは、決定の主体がどちらであれ、患者本人である子どもへの説明はきちんとなされるべきであるということだ。
患者を一人の個人として、その人格を尊重したとき、病状や医療行為など患者に関係する事柄について、患者自身に説明するのは当然のことである。つまり、患者は決定する必要があるから説明を受けなければならないのではなく、医療の主体として尊重されなければならないから、正しい説明を受ける権利を持っているのだと思う。
■なぜ説明が必要か
考えてみれば、何も説明を受けないままに怖くて痛い処置を受けたり、何も知らされないまま手術を受けて、目が覚めてみたらキズが痛む上に、たくさんの管につながれていたという経験は、子どもの自尊心や周りに対する信頼感といったものを損なうだろうことは容易に想像できる。
また、よりよい医療を行うためには、医療者と患者のコミュニケーションが不可欠である。患者が病状を知り、治療の意味を正しく理解することによって、治療効果が上がるという指摘が主に医療側からなされることがあるが、それも医療者と患者のコミュニケーションの効用を言うものと理解できる。このことは、患者が子どもである場合にも当然当てはまるであろう。反対に、説明を受けないまま、いきなり痛い注射をされたりすると、特に幼い子どもの場合には、自分への攻撃と捉え、トラウマとなってしまうこともあるという。 栃木県弁護士会の研究会で、幼児期に白血病にかかり、現在は成人して働いている女性から話を聞いたことがある。彼女は約20年前の当時を振り返って、自分への説明もなく突然医療行為を受けることに大変な苦痛を感じていた、知らないうちに注射をされたときなどは医師に怒りをぶつけた、と述べた。
小児医療の場においても、原則として(例えば、乳児は除かれるだろう)患者本人たる子ども自身にもきちんと説明がなされるべきである。それは何も、小児ガンの告知や手術の説明といった特別な場面に限らない。日常的に行われる検査なども含めて、要は大人に対してであれば説明するような事柄は原則として全て、子どもに対して説明すべき対象となると考えてよいのではなかろうか。
■専門家と親の役割
さて、子どもに説明をと言ってみたものの、そう簡単なものではないとの反論が、医療従事者と親の双方から聞こえて来そうである。二つだけ、私の考えを述べたい。
一つは、子どもに分かるように説明しなければ意味がないということである。理解できないのではコミュニケーションは成立しない。子どもの年齢や理解度に応じた方法で説明がなされる必要がある。
この点で、私はチャイルド・ライフ・スペシャリストなどの専門家と、彼らが使うプリパレイションをはじめとした手法に注目している。プリパレイションとは、治療や手術の前に子どもの年齢にあったことばや道具を使って説明し、理解してもらい心の準備をなすこととされている。同様の役割を担うホスピタル・プレイ・スペシャリストとともに、いずれも国内の資格として確立されておらず、国内には養成機関がない。国内の医療機関で働いているのは、両者を合わせても30名足らずにすぎない。 チャイルド・ライフ・スペシャリストなどの役割は子どもへの説明に限られないし、プリパレイションはインフォームド・コンセントを助けることを目的として行われるものではない。しかし、子どもに医療行為の意味を理解させ、納得してもらえるよう助けることは、子ども自身に医療におけるコミュニケーションの主体たる地位を取り戻すために、極めて有用であると思う。
もう一つは、親の役割についてである。繰り返しになるが、子ども自身が年齢や理解度に応じた方法で説明されるべきであり、それは子ども自身に医療におけるコミュニケーションの主体たる地位、ひいては医療の主体たる地位を取り戻すことを意味する。これは医療者にのみ課せられた責務ではないと思う。親は、子どもが成熟し親の関与を不要とする場合を除き、子どもと一緒に説明を受け、そして医療行為に関する決定に関与している。
親が説明を受け、決定に関与するのは、「子どもの代わりに」そうしているというだけでなく、子どもの理解を助けるためにしているのだと考えたい。つまり、子ども自身がその年齢や理解度に応じて最大限に医療の主体たる地位を確保できるようにするという点において、医療者と親は協働関係にあり、ともに子どもに対する責任を負っている。私はそう思う。
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