(関連目次)→産前・産後にまつわる社会的問題 目次
(投稿:by 僻地の産科医)
講習会●平成19年度母子保健講習会「子ども支援日本医師会宣言の実現を目指して
シンポジウム:母子の心の健康を求めて
平成20年2月24目開催
妊産婦のメンタルヘルスの理論と実際
ハイリスク者の早期発見と育児支援における
医療チームの役割
吉田敬子
(日医雑誌第137巻・第4号別冊/平成20(2008)年7月 p75-81)
はじめに
出産は本来おめでたいことであるが,出席後数週間から数か月は,女性のライフサイクルのなかでは精神障害の発症率が最も高い時期でもある.
なかでも産後うつ病は特に発症率が高い疾患であるが,1987年に産後うつ病のスクリーニングの方法が開発されたのを機に,産後うつ病研究は各目で飛躍的に進み,発症リスク要因,ケアや治療についてのストラテジーの検討も進んでいる.それらを踏まえて,わが国でも地域での出産後の母子訪問時に母親への精神面のスクリーニングや支援を含めるなど,育児支援は行政レベルでの充実もみられるようになってきた.
Ⅰ.周産期医療の各専門領域による連続性のある関わり
出産後の母親のメンタルヘルス支援には,多様な専門領域の医療や保健従事者が関与し,福祉領域との連携が必要となる場合も多い.母子健康手帳が普及し,妊産婦健診と乳幼児健診の制度があるわが国では,産科・周産期・新生児・小児科・保健・福祉の各領域が連携することが大切である.ニ牡により妊娠中から出産後まで,領域や制度によって途切れることなく母親へのメンタルケアと育児支援が継続して実施できる.先述したように産後うつ病はこの多領域間の連携による早期発見,早期ケアや介入、治療が必要で重要な疾患である.
その理由は,
①発症頻度が高い
②育児に支障を来し,その子どもの発達にも好ましくない影響を及ぼすことがある
③不適切な育児や乳児虐待のリスクのある母親への早期介入が期待できる
などである.
Ⅱ.産後うつ病の基本的な理解と対応の留意点
1.臨床的な特徴
(1)症状
産後うつ病の症状はほかの時期のうつ病と基本的には同じだが,育児に障害を来すことがあるため,乳幼児の安全な発育と発達を考慮して母親のケアと治療を行うことが重要である.母親によっては,抑うつ感を訴える代わりに,「ほ乳が足りないのではないか」,「哺乳力が弱いのではないか」など育児に関連した不安を訴え続ける場合があり,その場合「育児不安」の強い母親として捉えられ,うつ痛が見逃されることがある.また「赤ちゃんに何の感情ももてない」「夫と赤ちゃんのためにも自分はいないほうがいい」といった表現で,必要以上に罪悪感を抱き,母親としての自信も喜びも希望ももてない状態がみられる.
これらの症状の多くは,後に述べる周囲や地域の保健スタッフなどによる育児支援で軽快するが,母親自身が本来の自分に戻ったと感じるまで1年近く要することもあり,母親の気持ちや自信の回復を重視して育児支援を続けることが重要である.,重症例はごくまれだが,その場合は抗うつ剤の投与を含めて精神科治療が必要となる.嬰児殺しや母子心中を図るに至った例には,産後うつ病が関わっていた場合もあるので.自殺企図があったり母子だけにできない状況では,精神科医師への紹介が必要である.
(2)発症頻度と時期
産後うつ病は,出産後1~2週から数か月以内に1O~20%の頻度で生じる.ただし,これはその調査がどのような母親たちを対象に調布したのかにより異なる.地域の保健所において出産後の母子訪問の対象となった母親は発症率が高くなる傾向がある.これは訪問対象の母親たちが,育児サポートが乏しい.低出生体垂児の出産などの理由を抱えているためである.しかも多くの母親は.出産後2~3週間ごろまでに症状が出現し始めることが分かっているので、母子訪問を始めるならよ.出産後なるべく早期から実施することが留ましい.
(3)産後うつ病の発症に関連する要因
うつ病の発症に関連する要因として,
①精神科既往歴
②情緒的なサポートの乏しさや欠如
③ライフイベント
がある.①は,うつ病をはじめとして精神症状のために精神科の受診歴があること,または心理的な悩みやストレスで学業や仕事に支障が生じ、精神科ではないけれども心療内科受診やカウンセリングを受けたりした経験があることを意味する.②は,夫やパートナーとの関係が不安定で,十分な精神的支援がないこと.③は,環境要因として家族の死や重大な病気.夫の失職など経済的な危機,親しい人との離別や決裂など,人生上の好ましくない出来事をライフイベントというが,これを妊娠中や出産後早期に経験することである.これらは育児支援を行う際に把握すべき育児環境や状況など心理社会的な状況である.具体的な内容は育児支援チェックリストにまとめており,地域保健所の保健師などはこの項目を利用して育児背景の把握を行っている(表1)
(4)エジンバラ産後うつ病スクリーニング
産後うつ病のスクリーニングでは,エジンバラ産後うつ病質問票(Edinburgh Postnatal Depression Scale ; EPDS)が国際的には最もよく知られており,わが国でも日本語版が作成され,現在すでに全国で使用されている(表2).出産後の母親が体験するうつ症状が質問形式で10項目記載されており,母親が最近1週間ぐらいの間に感じたレベルを選ぶ自己記入式質問票である.EPDSは,産後うつ病についてよく理解している医療保健スタッフであれば使用でき,医療機関,保健所,母子訪問の家庭などで使用される.母親が自己記入するが,スタッフは素点やEPDSの総得点を母親には伝えない、また,本質問票の総得点はうつ病の重症度を示しているのではなく,あくまでスクリーニングのための区分立を設けている質問票であることを理解し,正しく使用する必要がある.
(5)スクリーニングの重要性
EPDSを利用する利点は,まず,サポートが必要な母親にとっては.スクリーニングによって自分の状況を周囲に知ってもらうことができ,サポートを受ける機会につながることである.日本人のなかには,自分の感情への気付きや表出が得意ではない母親もいる.自分自身の抑うつ感情に気付かずに体の不調と思い込んでいる場合や,気付いても夫や家族にどのように訴えていいか分からない,あるいは.身近な周囲に訴えて「SOS」のサインを求めることを躊躇している場合もある.また.赤ちゃんがいるために,自ら保健所や医療機関などに相談に出かけることが困難な状況もある.加えて.精神科などの専門機関を受診するには敷居が高いというアクセスの問題もある.ことさら.わが国の場合では母親の身体的な訴え,あるいは育児についての心配や不安といった表面的な訴えだけを捉えていると,産後うつ病を見逃す可能性があるため,周産期医療に関わる多くの機関で行えるこのスクリーニングの効用は大きいといえる.
(6)母子相互作用および育児への影響
子どもとの絆を深めていく過程で発作する産後うつ病は,育児機能(ペアレンティング)や乳児の発達に否定的な影響を与える.夫や周囲から育児サポートが十分に受けられない場合は、赤ちゃんへの気持ちはますます否定的になり,虐待の危険性にも注意を払う必要が生じる.虐待発生の過半数は乳幼児期であったという全国の多施設調査結果からも,このような母親の場合は特にケアや介入と,乳児の安全の確認が必要となる.母親が赤ちゃんに対して感じている気持ちや育児態度について評価する内容は、「赤ちゃんへの気持ち質問票」にまとめている(表3).
2.援助の実際
(1)地域での育児支援:育児支援ツールの全国での共有化
出産後の育児に困難を来す要因や側面について以下の3つに分けて把捉・評価し,それを統合してその母親の個々の特徴を踏まえた支援を行うことが求められる.その際、母親の主観的な気持ちを尊重する.すなわち,
①夫や周囲からの情緒的なサポートの有無やその他の育児環境など
②育児への不安や母親自身の抑うつ感
③子どもに対する自分自身の気持ちや育児の喜び
などに基づいた内容となる.そのため.母親が自己記入する質問票を使用する.前述の3つに対応した質問票を使用して実際に育児支援を行う方法については育見交援マニュアルにまとめている.これを教材として全国の育児支援者を対象とした教育と研修を行い、現在では多くの機関で使用されている.
質問票は,
①育児支援チェックリスト(育児環境の評価)
②EPDS(母親の精神面評価)
③赤ちゃんへの気持ち質問票(対児感情と育児態度)
である.これにより,出産後の母親が育児困難を来す状況を包括的に把捉することができる.質問票という共通のツールを用いることにより、支援者間では,周産期に関わる多領域の専門スタッフ間での引き継ぎや連携が容易となり,継続的なモニターやフォローアップのツールとしての用い方も可能となる.
(2)精神科薬物療法
妊娠出産額の女性に実施される薬物療法については.他の時期にはない留意点がある.すなわち薬物使用の利益とリスクについて,母と子どもの双方の観点からの判断が必要になることである.妊産婦とその家族,および産科スタッフも薬物療法のリスクについて心配するのは当然だが、この時期の薬物療法の安全性についてはこのような心配に応える系統的研究が少なく,統一した見解がいまだ得られていない。
妊娠期の薬物療法における胎児への有害な薬理作用に関しては,有害ケースの報告は散見されるが系統的な研究報告は少ない.現状では妊婦のメンタルヘルスの症状に合わせて過不足のない薬物療法を行い,同時に胎児のモニターを行うことが求められる.妊婦のストレス増加や精神的な健康度の低下自体でも,催奇形性の先進,子宮内での発育遅滞,早産の惹起,長期予後からみた子どもの情緒や発達の障害との関連が報告されているからである.
母乳栄養児については,筆者は,薬物の母乳移行に関する研究結果から以下のような見解をもっている.
①母乳栄養のために向精神薬を中止,または減量することは,母親の精神障害の経過を増悪させる.
②母親が母乳栄養を希望しているにもかかわらずそれを中止させることは,母親の不全感や自責の念を助長させる.
選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)をはじめ多くの薬剤では,母親が服用した場合,母乳中へ移行するが,乳幼児への副作用の有無や発達の経過は,私たちの臨床例も含めて良好である.そこで,新生児に小児科的な問題がない場合は.精神科薬物治療を治療投与量の範囲内で服用している母親も母乳栄養を続けることができるという見解とその報告が多い.SSRIは,特に産後うつ病にも広く使用されている.ただし副作用が疑われたら,そのときの状況を正確に報告することが今後の臨床に役立つ.
Ⅲ.今後の方向性
1.産科・周産期医療スタッフの役割の重要性
妊娠や出産・新生児医療に関わるスタッフは,産後うつ病を早期に見出すことができる状況の職場環境で働いている.EPDSは産後の早期と,それ以後に施行した得点に高い相関がみられる.このことは,出産後,母親が退院するときに産科スタッフがEPDSを施行し,そこでうつ病と検出された母親には産後1か月健診に特に注意を払うことができるという意味では,産後うつ病への早期発見とケアという重要な役割を果たせることを意味する.
2.妊娠中からのケアと治療の試み
さらに今後は妊娠中から継続する支援が必要である.私たちは精神科と産科のリエゾンワークを試みているため,その診療活動の基本的な流れを以下に述べる.
リエゾンワークの目的は,出産後の精神障害を発症しやすい妊婦がもっているリスクに対し,予防的介入を実施することである.すでに妊娠中から精神障害をもつ女性については,紹介先より引き継いで妊娠中からの治療を行うが,スタッフは産婦人科(周産母子センター)の医師と助産師および精神科の医師と臨床心理上による多職種チームである.
リエゾンの対象となる妊婦として,
①過去に精神科医,心療内科医,心理士などによる治療歴がある
②現在,精神科医,心療内科医、心理士などによる治療を受けている
③現在,産婦人科スタッフが精神科受診を勧めたいと思う訴えや症状がある
といったことを条件としている.②と③はまさに産後うつ病の発症のリスクの高い妊婦ということになるため,出産前後を継続的にみていくという意味でうつ病の早期発見に有効であり,予防につながることも期待できる.
おわりに
その後の継続支援としては,わが国には乳幼児健診や,出産後の母子訪問などの優れた母子保健サービスがある.このような既存のサービスを活用しながら,上記の3つの簡便な質問票を多くの機関で活用し,引き継ぎや連携をすることができる.多領域のスタッフが確認し,共にケアしていくことは今後ますます期待され,これらが充実すると健やかな母子と家族のウェルビーイングにつながっていくと考える.
コメント