(関連目次)→医療政策 目次 高齢者の医療について考える
(投稿:by 僻地の産科医)
今週号の週刊東洋経済です(>▽<)♪
2008年8月2日特大号(2008年7月28日発売)
かなり大変そうです。
青森県・佐井村
唯一の医師が消えた村の遠くしんどい満員バス通院
高齢化した村が無医村になった。残されたお年寄りは早朝、満員の患者バスで隣町に通う。同乗した。
(週刊東洋経済 2008.8.2号 p50-52)
海沿いの道をくねくねと走るうちに、バスは2人、3人と高齢者を乗せて、いつしか立ち客が出るまでになっていた。
「今日は少ないね。いつもは乗降ステップまでギュウギュウだから」
写真を撮っていると、おばあちゃんたちが口々に教えてくれる。
青森県佐井村。「まさかり」に例えられる下北半島の、刃の部分に当たる村である。
村には下北半島の市町村で作る一部事務組合の佐井診療所があった。ここには県が、医科と歯科の医師を1人ずつ派遣していた。ところが医師の集約化政策で、歯科を残して引き揚げてしまい、この4月から“無医村”になってしまった。
医療機関は北接する大間町へ行くしかない。やはり一部事務組合が運営する大間病院がある。だが、そこへ行くには村の中心部からですら、15キロほどの道をたどらなければならない。路線バスはあるものの、片道840円もかかる。往復1700円弱といえば、ちょっとした薬代より高い額だ。しかも、日中はダイヤの間隔が3時間も空くことがあり、そんなに待っていれば、治る病気も治らなくなってしまうだろう。
さらに、中心部から先は、1日に2往復しか路線バスがなく、まったく通っていない地区もある。
そこで村は、100円で乗れる「患者バス」を走らせ始めた。
午前7時、長後という地区を出発したバスは、お年寄りを拾いながら村の中心部を駆け抜け、1時間かけて大間病院にたどり着く。村の中心部から出る遅い時間の便もあり、1日に走るのは2往復だ。
週に1度は、第1便が午前6時45分発となる。長後より道い、福浦という地区から出るのだ。
「こんな満員バスに乗るのは、生まれて初めての経験だねえ」
74歳の男性が笑った。整形外科にかかっているのだという。
大間病院には整形外科はないのだが、毎週金曜日に出張医師の診療がある。このため金曜日には、28人乗りの患者バスが高齢者であふれんばかりになる。
乳母車を押してきて、停留所近くの家に預けてくるお年寄り。杖を2本持って、1本の人と助け合いながら乗ってくる高齢者……。
「バスに乗っているときは、緊張しているからまだいいんです。家に帰ったら、いつも立てないほど足が痛くなっている」
80歳の女性がため息をつく。車中では両手でしっかりと座席を握り締め、踏ん張って立っていた。
最果てを走る、超満員バス。
それが無医村の風景だった。
「仕方ない。迷惑になる」
診療抑制が重症化させる
青森県が医師を集約したのは、医療崩壊で医師が足りなくなったからだ。下北半島では、むつ市と大間町の2病院に集約し、医師の慢性的な過労を緩和させることにした。
県は大間病院を、「北通り」と呼ばれる佐井村など3町村の病院と位置づけた。そして、佐井診療所から医科の医師を引き揚げた。
この3月までの大間病院には、医科の医師が4人しかいなかった。
「日当直に他院からの応援はなく、30時間以上の連続勤務や、土日のぶっ通し勤務もありました」と、佐藤信彦事務長は語る。
「大間病院はきつい」
医師の間でそんな評判が立ち、勤務の希望者はめったに現れなかった。それが医師不足に拍車をかけた。
ところが今春から、2人増えて6人になった。
「十分ではありませんが、一息つける状態です」。佐藤事務長は胸をなで下ろす。だが、その代償で、佐井村は“無医村”になった――。
歯科だけになってしまった佐井診療所を訪れた。
「患者は多く、外来診療が午前中に終わらず、午後にまでかかることもありました。他院に移ってもらうために書いた紹介状は、400人分にもなります。医師引き揚げの動きが始まるまでは、村内の救急も受け入れていました。大間病院に運ばざるをえないときも、医師が同乗して行くことがありました。村の安心の拠り所でした」と、診療所の東出守男次長は語る。玄関を入ると、待合室に畳敷きのスペースがある。体がきつければ横になれるようにという、村らしい配慮だった。だが、もう横になる人はいない。
村は、県から案が示されたときに、各集落で説明会を関いた。
「村だからといって……、悔しかった。でもあきらめるしかなかった」
65歳の女性が振り返る。どうにもあきらめられないという表情である。
村には、中心部から車で30分以上の2地区に「僻地診療所」がある。ここには佐井診療所の医師が週に1時間訪れていた。それを医師引き揚げ後も大間病院などで維持し、かつ大間病院まで患者バスを走らせるという条件で、村民は折り合った。
ただ、村は高齢化率(65歳以上)が34%を超す。車を持たないお年寄りが多い。本来なら近場に医療機関があるべきだろう。それが無医村化することで、問題は起きないのか。
「通院の日数を減らしました」
71歳の女性が言う。独り暮らし。車はない。腰痛と高血圧の持病があり、月に1度は診療所に通っていた。ところが、患者バスでの通院は1日がかりになってしまうため、2ヵ月に1度に減らしたのだ。
東出次長は、「漁や畑作業で、お年寄りは結構忙しいんですよ」と、村の高齢者事情を説明する。
この71歳の女性は先頃、畑作業をしていたときに、鎌でざっくり指を切ってしまった。診療所に医師はいない。大間病院へ行こうにも足がない。嫁いだ娘を勤務先から呼び出し、車で連れていってもらった。「仕事で忙しいのに、悪いことをした。簡単にケガもできない」と言う。
村は人口約2600人、世帯数約1050。このうち65歳以上の独居世帯は131、65歳以上の2人暮らし世帯は113と、実に4分のI近くが高齢者だけの世帯である。
村ぐるみの虫歯激減は
歯科医がいてこそできた
「そうした高齢者世帯は、地区の人に病院へ乗せていってもらうこともある」と、村役場の福浦岳志・住民福祉課長は話す。だが、「気が引ける」と考えがちなお年寄りにとって、それが診療抑制につながらないかどうか。医師にかからないことで重症化すれば、家には住み続けられなくなる。村の医療費を押し上げ、財政を圧迫する原因にもなる。
佐井村では月に1度、村主催のケア会議を開いてきた。医師や保健師、介護サービスを行っている社会福祉協議会からの出席で、気に留めておかなければならない人の情報を交換してきたのだ。そうすることで、村が全機関を挙げて村民を見守る体制を作ってきた。ところが、このシステムから医師が抜けた。
高齢者や障害者は、医療・保健・福祉といった行政の壁を取り払い、人を中心にした見守りシステムを構築しなければ、ちぐはぐになってしまう。それを村独自で行ってきたのに、医療だけ抜け落ちてしまったのだ。高齢化がさらに進むこれからだからこそ必要な仕組みで、福浦課長は「大間病院を中心にして新しい体制を作っていかねば」と話す。
対照的な事例がある。
歯科だ。佐井診療所は現在、川島貫雅歯科医を所長に、歯科診療所として存続しているのだが、川島所長を中心にした村ぐるみの取り組みで、虫歯が劇的に減っているのだ。
川島所長が赴任してきたのはちょうど10年前のことだ。来てみて、虫歯の多さに驚いた。
「日本でも最も状態の悪い青森県で、佐井村はトップクラスの悪さでした」
そこで、川島所長は「揺りかごの前から墓場の前まで」を合言葉に、予防を始めた。村の保健師らと協力して、妊婦、乳児、幼児の検診などのときに細かく指導をしていった。学校では年に2回、歯の磨き方から実地指導した。成人に対しても各地区での検診や講演会を行い、お年寄りには在宅高齢者の衛生指導までして回った。
子どもたちを対象にした歯の審査会を開いては、優秀な子どもを村民カレンダーに顔写真入りで載せた。
こうした施策は、川島所長をはじめ、保健師、保育士、養護教諭、父母らの情報交換会で練り上げた。そうして意識から変えているうちに、村の虫歯は激減していった。
たとえば12歳児の永久歯の虫歯本数は、1999年には全国平均の1・5倍だったのが、2004年には全国平均の3分の2程度にまで落ちたのだ。歯科医を頂点にした村ぐるみの取り組みは、これほどまでに効果を上げた。だが、医科では……。
無医村が増えゆく日本
周辺から住めなくなる
佐井村を歩くと、至る所に赤十字の小旗が立てられている。これは64年に94歳で亡くなった三上岡太郎という医師にちなみ、村が「赤十字の里づくり」をしている証だ。
剛太郎氏は日露戦争に軍医として従軍。仮包帯所がロシア軍に攻撃されたときに、三角巾などで赤十字旗を作って掲げ、敵味方なく助けた。この赤十字旗はスイス・ジュネーブで聞かれた赤十字100周年記念博覧会で展示され、感動を呼んだ。
自身は村に戻り、村の医師として生涯を終えた。貧しい者からは治療費を取らず、辺境の往診にはボートを買って駆け付けたことなどから、仁愛の医師と言われている。
赤十字が翻る無医村
仁愛の医家も去った
三上家は江戸時代の1730年に村で開業し、村の医療を守り続けてきた医家だった。しかし、そうした三上家ですら、剛太郎氏の次の代までで村を去ってしまっている。
青森県では今年、津軽半島の旧平館村でも唯一の医師が高齢で医院を閉じ、“無医村”になった。
長野県では、医師が去った後、後任を見つけたものの、80歳という高齢で、かろうじて無医村を免れているだけのような村もある。
日本は周辺からじわりと無医村化が進んでいる。健康でなければ、生活してきた土地で生涯を全うできない。冗談ではなく、そんな時代になってしまっている。
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