(関連目次)→医療事故安全調査委員会 各学会の反応
(投稿:by 僻地の産科医)
「医療の安全の確保に向けた医療事故
による死亡の原因究明・再発防止等の在り方
に関する試案-第三次試案-」に対する意見
本山 浩道
(長崎県医師会報 平成20年6月 第749号 p40-41)
離島医療に係わる者としての個人的意見です。離島では少ない医療資源を使って医療が行なわれており、医療事故は身近な問題です。それでも長年問題なく医療が成立しているのは、完璧なシステムと完璧な医師がいるからではありません。住民の医師に対する思いと、医師の住民に対する思いがあるからです。離島で働く医師はそのことを十分に認識した上で島に生き、期待に応えるべく、よりよい医療を目指しています。
しかしひとたび医療訴訟が起これば話は変わります。住民に訴えられた瞬間に医師は居場所をなくし、住民に尽くそうという気持ちも萎えて島を去ってしまうことになります。医師と対立する島には医師は寄りつきません。ましてや一人でも刑事立件されればその影響は他の島にまで波及し、医療過誤の恐怖によって無医地区が多発することと思います。
私は医療事故調査委員会を作ること自体には賛成しますが、提示された第三次試案は地域医療を破壊しかねない重大な問題をはらんでおり賛成できません。
第三次試案に従って医療安全調査委員会が設置されたとすれば、医療事故の処理はどう変わるのでしょう?
例えば、経鼻栄養カテーテルを胃でなく気管に誤挿入し、肺に栄養剤を流し込んで死亡する事故や、中心静脈栄養のためのカテーテル留置で、動脈穿刺で大量出血を起こしたり、胸腔内に留置して栄養剤を入れ呼吸困難を引き起こしたりして死亡につながった事故は、明らかに医療過誤ですが、しばしばみられる事故であり、それゆえに手技に伴う想定可能な合併症とも言えます。
もちろんこれらの事故が起こりうることを医療従事者は知っており、十分に注意して行なっていますが、それでもこれらの事故は全国で毎年起こっています。
これらは誤った医療で患者が死亡していますから届け出範囲①に該当し、医療機関は医療安全調査委員会への届け出義務を負います。
委員会が合併症あるいは医療過誤と判定した場合、委員会から警察・検察へ通報されることはないでしょうが、遺族が告訴すれば捜査に入ることが確実です。わかりやすく書かれた調査報告書が交付され、患者は死亡しているのですから、調査報告書に納得できなかったり、感情的になったりした家族が告訴に打って出ることは十分に考えられます。また今でも民事裁判を有利に進めるために刑事告訴を起こしているかのような事例があります。
このように委員会が警察に通報しなくとも、遺族の告訴で独自に動くことを警察は言明しています。医療行為を原因とする死亡は明らかで、警察は令状を取れば資料をすべて入手可能ですから証拠は十分で、おそらく裁判所の判断も有罪となるでしょう。
いくら報告書を尊重すると言っても、回避が不可能であったという調査報告書でもない限り主旨は一切考慮されません。捜査は犯人探しに終始し、事故が回避できる可能性が一つでもあれば起訴になり得ます。裁判所の判断も根拠となる法律が変わらない限り今後も変わらないものと思います。
では民事はどうでしょうか。これまでは事故の説明は基本的に口頭で行なわれ、必ずしも文書は渡されてきませんでした。院内ADRも普及して来ており、示談で解決すれば、必ずしも裁判に至るわけではありません。医療過誤なら警察への届け出はなされるでしょうが、示談に至った場合には謙抑的に対応される可能性もあります。
ところが義務によって届け出た医療安全調査委員会から遺族に調査報告書が交付されます。もちろん納得できる遺族もいるでしょうが、医療専門の弁護士は増加しており、手元に誰でも理解できる資料があるとなれば、民事訴訟の増加は想像に難くありません。民事上も法律の変更はありませんから裁判所の判決も今と同様の結果になることでしょう。
まあ行政処分だけは軽減されるかも知れません。
以上極論でも何でもありません。普通に予想されることだと思います。
医療機関も遺族も調査を望んでおらず、これまで問題にならなかったような事例でも届け出範囲が広いため、届け出が義務づけられ、調査後は信頼関係を分断するように調査報告書が交付されます。これでは地域医療の中でこれまでうまくやってきた医師-住民関係が決定的に崩れるかも知れません。
せめて故意による事故でなければ、家族の希望によって届け出がなされるべきで、家族が届け出を希望しない医療過誤は医療機関の発生報告と事故調査報告をもって届け出に代えることで十分ではないかと思います。
医師法第21条の届け出義務については、医療に関連する異常死は故意の介在を否定できない死亡とすると明文化すれば解決します。
ここで第三次試案の最大の問題点を述べます。
本来真相究明、再発防止のためには本人を罰しない代わりに真実を語らせ、問題点を明らかにすることが最も大切です。原因がわからなければ適切な対策など立てられるわけがありません。これはリスクマネージメントを少しでもかじったものであれば常識です。世界的にも先進国ではこの考え方に基づき、刑事処罰より真相究明・再発防止を優先しています。
ところがこの試案では当事者は調査チームの質問に答えなくてよいとしました。黙秘権を守るよい案のように思えますが、これは刑罰を与えることを前提に、憲法違反を避けるためには黙秘権を認めざるを得なかったがゆえの一文です。真相究明を優先するならば、真実の告白が不利益処分につながらなければいいのであって、黙秘権にこだわる必要などありません。つまり処罰することを優先して、真実を語らせることを捨てたのです。すなわち第三次試案が真相究明・再発防止を目的としないことは明らかです。
法務省・警察・検察との交渉で妥協を引き出したように見えますが、よく見ると彼らの権限には一切手を触れていません。訴追を回避する覚え書きの取り交わしがあったと言われていましたが、そのようなものが一切存在しないことが国会答弁で明らかになりました。何も保証していない第三次試案以外の文書は何もないのです。法を根拠に動く人を、法を変えずに動かすことなどできません。にもかかわらず厚生労働省は訴追回避が可能であるかのようにみせかけた第三次試案を作ったのです。
第二次試案に対するパブリックコメントの時から集中していたのは医療における過失事故の刑事免責を求める意見です。しかし第三次試案でも全くここに手は加えられませんでした。
そもそも刑法の存在意義は犯罪の抑制と犯罪者の更正にあるはずです。しかしこれが機能するのは犯罪が故意に行なわれる場合だけであり、過失には当事者にいくら刑罰を与えても別の人が別のところで同じような過失を犯しえます。これは医療事故に限った話ではありません。交通事故も同様ですが、唯一飲酒運転厳罰化後は事故が減少しました。これは飲酒運転という故意犯罪を抑制したためです。
医療でも過失事故に刑法を適用すること自体不適切です。過失罪でいくら医療従事者を刑務所に送り込んだところで次の事故防止にはつながりません。それよりも再発防止のために詳細に原因究明を行なうことこそ次の医療事故を防ぐことにつながります。刑法の適用は原因究明の阻害要因にしかなりません。
法律の改正が大変であることは理解できますが、すでに萎縮医療は行なわれており、もう待ったなしの緊急事態に医療は追い込まれています。法改正を早急にかつ真剣に考えるべきです。
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