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(投稿:by 僻地の産科医)
とてもいい記事でしたので ..。*♡
お伝えします。
多田富雄の落葉隻語
現代の「姨捨」を憂える
2008年03月12日 読売新聞
http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp80311a.htm
わが心 慰めかねつ 更科や
姨捨山に 照る月を見て
ひとり山に捨てられた老女が、皓々(こうこう)と照る月光の下で悲しみの舞を舞う能の名曲「姨捨(おばすて)」。同じく深沢七郎の小説「楢山節考」では、捨てられたおりんばあさんの悲劇が涙を誘った。「姨捨」には、中世農民の貧困という背景があった。そんな世には二度としたくないと誰もが思う。しかし今、国の政策としての「姨捨」が平然と行われている。
明治以来昭和に至る日本は、富国強兵によって国の近代化に成功したが、民意を無視して侵略戦争に突入し、敗戦の苦難を国民に強いた。これを作家小田実は「棄民」と呼んだ。戦後の昭和は、捨てられた国民が決起して、民主、平和、平等など、人権を回復した歴史、つまり棄民が復権した時代であった。憲法にも国民の「生存権」が明記された。
それがまたまた危うい事態になっている。国民はまた捨てられようとしている。「棄民」は、誰もが気付くように始められるものではない。気付かぬうちに、弱いものから捨てられてゆく。気付いたときはもう遅い。だからどんな微(かす)かな棄民の動きでも敏感に察知して食い止めなければならない。その初期の徴候と思われる事が最近頻発している。
リハビリの日数制限はその好例である。リハビリなんてと見過ごしてはならない。こんなところから、棄民が始まっているのだ。私は脳梗塞(こうそく)の後遺症で、右半身の完全な麻痺(まひ)と言語障害となり、車椅子(いす)生活を余儀なくされている。私のような重い障害を負った患者は、残っている機能を維持するため、リハビリを欠かすことはできない。中止すれば、寝たきりになる。リハビリがそれを防ぐのだ。
そのリハビリが、一昨年から日数で制限されてしまった。制限日数を越えた者は、介護保険で老人ホームのデイケアに行けというが、専門のスタッフもいないところで、リハビリなんかできない。その証拠に、いうことを聞いて介護保険に移った患者の七割以上が、リハビリを諦(あきら)めてしまった。
診療の報酬を決めるのは厚労省の権限だが、診療の制限までする権限はないはずだ。治らないからやめろというのは、死ねということに他ならない。残された機能を維持するのは大切な治療だ。やめてしまえというのは、糖尿病のインシュリン投与を中止しろというような乱暴なやり方ではないか。治療を拒否された患者は、「リハビリ難民」と呼ばれた。しかし度重なる請願に関わらず、救いの手は差し伸べられなかった。「難民」は一転して「棄民」になってしまった。現代の「姨捨」に他ならない。
こういう事態を憂慮して、私は「診療報酬を考える会」の仲間と一緒に、二ヶ月間に四十八万人あまりのリハビリ制限反対署名を集めた。私は車椅子を押してもらって、支援者とともに、厚労省に署名簿を手渡した。しかし国は、血の滲(にじ)むようにして集めた四十八万人の署名を握りつぶし、かえって再改定をして締め付けを強化した。
その結果患者は二度捨てられたことになる。療養病床の削減も「棄民」のいい例である。帰るところがない悲しい事情のある患者に、無理に退院を迫る。昔の結核病棟だって、最後まで患者を看取(みと)ったのに。「障害者自立支援法」も、残酷な「棄民法」である。この四月から始まる後期高齢者医療制度も、老人を現行の健康保険から切り離し、医療を制限し、負担を強いる典型的「姨捨政策」である。
まず力の弱い、回復の見込めない障害者、老人、患者が捨てられた。治らない患者を治療するのは無駄だから、死ねという乱暴なやり方だ。「姨捨」とどこが違うのだろう。国が崩壊すると難民が出る。同じく国の行政が破綻(はたん)すると、同じく難民が出る。「医療難民」である。それが「棄民」まで作り出せば、逆に国を崩壊させるだろう。まさに「わが心、慰めかねつ」である。
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