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(投稿:by 僻地の産科医)
ドゥクンdukunによる人工妊娠中絶
虎の門病院産婦人科
東梅 久子
(臨床婦人科産科 61巻11号 p1406-1407)
禁じられた人工妊娠中絶
人工妊娠中絶が法律で禁じられているインドネシアでは,妊娠がわかったときにひそかに自ら手を下すことを考える女性は少なくない.自ら手を下すことが難しいとなれば,続いてドゥクンdukunのもとを訪ねることも多い.
ドゥクンとインドネシア
ドゥクン抜きにインドネシアを語ることは難しい.2004年末のスマトラ沖地震では,震源地に近いスマトラ島北端のアチェで多くの犠牲者が出た.地震から3か月後,現地で行方不明者を捜す記事が日本の新聞に小さく掲載された.「肉親の消息霊媒師頼み」の見出しで始まる記事には,死亡を諦めきれず霊媒師を尋ねる人々と,疑いのない死亡に何をしろというのかと苛立ち柑談を断る霊媒師の話がのっている.
ドゥクンの仕事は方角や時間の占い.政治などへの助言,病気の治療,分娩介助,人工妊娠中絶など多岐に渡っている.これを裏付けるように日本語訳も霊媒師,呪術師,伝統的産婆traditional birth attendant,伝統医traditional doctorなどひとつに定まらない.
大統領や官僚は複数のドゥクンが付いて,政治へのアドバイスをするかと思えば,意中の異性の気を引くために魔術をかけたりする.ときどき魔術をかけ間違え,意中でない異性に好意を寄せられて困惑するなど,コメディ映画か小説かと思うような信じ難い話も多い.なかには偽ドゥクンもいて,大々的に広告を出して荒稼ぎをしたりする.
ドゥクンと医療
ドゥクン抜きにインドネシアを語ることが難しいように医療もまたドゥクン抜きに語ることは難しい.
医療におけるドゥクンの暗躍ぶりは興味深い.
治療に器具を使用することはほとんどなく,患部をマッサージしたり,口に含んだ水を吹きかけ呪文を唱えたりする.鶏の首の骨を折って,ヒトの骨折した患足を治すなど聞くだけで十分に怪しい.
ドゥクンは原則として報酬を要求しない.このため経済的負担がないことや慣習から,地方では現代医療よりもドゥクンによる伝統医療が選択されたり,地域によっては現代医療を希望しても医療施設がなく,ドゥクンに頼らざるをえない.
伝統的産婆と呼ばれる分娩を取り扱う女性のドゥクンも同様である.助産師や医師がいない地域では,無介助分娩より無資格でも介助経験のあるドゥクンということになる.ドゥクンによる分娩介助か妊産婦死亡や新生児死亡増加の原因になっていることから,政府はドゥクンに対する産科教育を行っているものの.その機会は少なく.危険にさらされつつドゥクンだけが地域の産科を担っているところも少なくない.
ドゥクンによる人工妊娠中絶
人工妊娠中絶もドゥクンの仕事のひとつである.
人工妊娠中絶の適応は胎動で判断される.胎動があれば危険であるとされ,人工妊娠中絶は行わない.一方でドゥクンは予定日が近い胎児を消すことができるともいわれており,医療スタッフに本当に消すことができるのかと真顔で質問されたときには心底驚愕した.この影で多くの女性が胎児とともに命を落しているのであろう.
ドゥクンによる人工妊娠中絶は腹部マッサージから始まる.マッサージは流産するまで行われ,30分以上が一般的であるらしい.性器出血がみられれば流産したと考え,出血しない場合にはさらに腹部の上で飛び跳ねて踏みつけるという荒業を行う.性器出血がみられても,妊娠が継続していたり不全流産に終わることがあるものの,性器出血があれば,人工妊娠中絶が禁じられているインドネシアでも不全流産として子宮内容除去術の適応となることから,一部の女性には病院で安全な手術を受ける道が開ける.
腹部マッサージによる人工妊娠中絶は,性器出血による感染や出血で死亡する機会を増長する.人工妊娠中絶が違法であるインドネシアでは,依頼者も施術者にも刑罰が課され,死亡の場合には罪も重くなるものの,ドゥクンが責を問われることはまずない.責を問われるのは,インドネシアの慣習やイスラムの慣習に背いて婚前交渉をもって妊娠し,違法な人工妊娠中絶を試みた女性である.
ドゥクンによる母体死亡
インドネシアでは死因が自殺とされている若い女性のなかに 人工妊娠中絶による死亡が相当数含まれていると推測されている.葬儀では婚前交渉をもったことによって社会に反し,人工妊娠中絶を試みたことで法に反して命を落とした家族にとって不名誉な娘の真実は伏せられる.
国際協力機構(JTCA)の海外青年協力隊員であった看護師から興味深い話を聞いた.
ある日,女子高校生が敗血症でICUに搬送されてきた.ドゥクンのもとで人工妊娠中絶を試みた後だという.敗血症性ショックにより来院時にすでに意識はなく,治療の甲斐なく数日後に死亡した.
若い女性の早過ぎる不幸な死に哀悼の意を禁じ得ない.しかしインドネシア人医療スタッフの反応は,自業自得による死亡であるという考えから,冷ややかであったという.ここに婚前の妊娠および人工妊娠中絶に対するインドネシア人の感覚をみる思いがした.
一方で人工妊娠中絶が簡単であると信じられ,簡単に行われている日本において,人工妊娠中絶により不妊になる可能性は知っていても,死亡する可能性を知っている女性がどれだけいるのであろうかと考えると.人工妊娠中絶大国といわれる所以を思わざるを得ないのであった.
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