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(投稿:by 僻地の産科医)
今日は、論座10月号ですo(^-^)o..。*♡
http://opendoors.asahi.com/data/detail/8332.shtml
全体的に面白そうな特集が並んでいますが、特集 熟年労働の現場なんて医療の現場ともそのまま同じかも~o(^-^)o..。*♡とか思ったり。
では、どうぞ!!!!
小松秀樹 虎の門病院泌尿器科部長 日本は、通常の医療として実施された行為を過失犯罪として取り締まっている世界的にまれな国です。「医療における『罪』の定義」という大げさなタイトルは、日本医師会から医師向けのラジオ講座で依頼されたもので、何が罪になるのかを確認しておきたいというのは、現在の日本の医師にとって、切実な問題なのです。 検察関係者への質問 【質問1】どのような過程で起訴するかどうかを決めるのか。 <捜査主体の面> <事実認定の面> 【質問2】起訴するための判断基準について、外部に出している公式見解があるか。その内容は。 【質問3】どのようなものを業務上過失致死傷と考えているか。「検察関係者の話」として伝えられることはあるか。 検察関係者からのメッセージをまとめます。 業務上過失致死傷の恐怖 二つ目はシステムエラーに関するものです。業務上過失致死傷罪の規定では、過誤は悪であり、これに刑罰を科すことで、注意を喚起して、安全性を高めようという考え方に基づいています。しかし、近年のヒューマンファクター工学の知見では、人間は機械と違い、疲れやすかったり、思い込みがあったり、環境の影響を受けやすかったりと、そもそも間違えることの多い存在です。人問は過ちを犯すという前提で、過ちが被害につながらないようにシステムを考案します。多くの医療過誤はシステムの問題です。善悪の問題ではなく、認識、アイデア、費用の問題なのです。 このような判断基準に従って、責任の重い順に以下のような分類をしています。 1悪意に満ちた破壊活動 私はこの保安係のエラーは9に該当する、あるいは、広くみても、7から9のいずれかに分類されると思います。この事故はまさにシステムの問題であり、個人を対象とする刑事処分には適しません。個人の責任とすることで、一件落着させることは、その後の社会の安全に向けた対応を、阻害することになります。 検察からの回答は、規範と手続きについては書かれていますが、実情の認識や医療行為の評価の方法は述べられていません。なぜか。法律家は、規範と手続き以外のことを体系立てて考える習慣を持たないからではないでしょうか。 医学論文では常に「材料と方法」が詳しく記載されます。材料に偏りがないか、方法がどのようなものなのかが、検証できなければ、雑誌は絶対に論文を掲載しません。「方法」というのは認識の手段です。 検察は、体系立った知識を欠くのみならず、科学における、方法の重要性を知りません。方法の持つ性質や精度を考慮することなく、重大な決定をします。必然的に、決定の過程では、「勘と気合」が認識より大きな役割を果たさざるをえません。 医療側の問題 刑事処分はその破壊力ゆえに、謙抑的でなければならず、代替手段があればそちらが優先されるという大原則があります。本来、、「最後の手段」であるはずの刑事処分が、その前の段階の行政処分の根拠となっているというのは、制度として明らかな矛盾があるということです。
医療における『罪』の定義
(論座 2007年10月号 p113-119)
刑法は、個人、社会、国家にとって有用な価値を守るために、あるいは応報のために、原則として国内に限定された個人を、その責任ゆえに罰する体系です。日本の刑法は明治41年に施行された古めかしいもので、本格的な改正は行われておりません。
診療に関する罪は、刑法211条の業務上過失致死傷罪になります。「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者」を罰する規定です。この「必要な注意」が問題になります。
業務上過失致死傷に対する警察の調書は『被疑者なにがしはAを予見すべきところ、漫然とBを継続したことにより、Cを発生させた過失があった」という文面になります。立証するためには、予見義務違反、結果回避義務違反を証明すればそれでよいのです。これは民法709条の不法行為の証明と同様です。医療は人間を扱うので、過誤は傷害や死に直結します。民事と刑事の間に明確な区別はありません。起訴するかどうかは医療にくわしくない検察官が決めます。
ある検察関係者に、以下のような質問をしました。検察は現行法に縛られているので、安易に現行法の問題点についての意見を公表できません。このため、回答は、現在どのようにしているのかについての個人的な解説にすぎません。検察関係者としては、医療関係者とのコミュニケーションの重要性を理解したうえでの、精いっぱいの非公式サービスだったのかもしれません。文書による彼からの回答を、そのまま転記します。
【回答】
警察が事件を立件し、警察から検察庁に事件記録を送致する場合が多いが、検察庁に堵いて直接告訴・告発するなどし、捜査を進める場合もある。
主任検察官において、自ら又は警察に指示して捜査を行い、事件記録を熟読し、その処分を検討。主任検察官が、上司の決裁検察官らと、処分について協議。主任検察官が、処分を決定(事件を起訴)。
警察及び検察の捜査により、過失の有無の判断に必要な事実や、それを裏付ける証拠を収集。過失の存否を判断。
過失の存在が認め難ければ、不起訴(嫌疑不十分)。
過失の存在が認められる。↓質問2へ
【回答】犯罪の成立が証拠上認められる場合に、起訴するか不起訴(起訴猶予)にするかの定型的な判断基準はない(したがって、外部に公表している公式見解はない)。
起訴の有無を決するに当たっては、個々の事案に応じ、過失の程度、被害緒果の重大性、過失が発生した背景事情、示談の有無、被害者側の処罰感情、そのほか一切の事情を考慮して判断する(刑事訴訟法第248条一犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる)。
【回答】医療との関係では、一般の医師として要求される注意義務に違反して人を死傷させた場合には業務上過失致死が成立することになるが、その判断は、個々の事案に応じて、収集された証拠から過失の有無を判断した上で、犯罪(業務上過失致死傷)の成否を決するものであり、具体的に犯罪が成立するものはこのような事案であると、一概に述べることは困難である。業務上過失致死傷は、業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた場合に成立するものであり、必要な注意義務の内容やこれに反した態様は、医療事故に限らず、交通事故、船舶事故、航空機事故などにおいても様々であって、一概に判断基準を述べることができないということ自体は問題とはならない。
【質問4】検察から医師に伝えたいことはあるか。
【回答】
・医療機関に対して
最近における医療機関の安全に対する取り組みについては理解しており、その成果があがってきているものと認識している。
・検察官の心構え
検察官も、医療過誤事件を処理するに当たって、医療現場の実態・実情を十分に把握しておくことが適正適切な処分をするために必要と考えている。
・過失の認定に当たって
刑事上の過失は、注意義務違反(予見義務・予見可能性、結果回避義務・回避可能性)などの要件を満たす必要があり、その要件該当性については厳格に考えており、もとより、結果のみから、当該医療行為の過失の有無を判断するものではない。すなわち、業務上過失致死傷として刑事責任を問われるのは、過失があったことが大前提であり、診療中に死亡した事実から直ちに過失ありとされるわけではなく、あくまで当該医療行為時からみて、その医療行為の過失の有無を判断している。また、医療行為にはリスクを伴うことを踏まえて、一般の医師に要求される注意義務に違反したか判断することになる上、過失があり犯罪が成立すると認定できる場合であっても、実際に起訴する事例は限られて抽り、医療の有用性は、十分考慮した上で処分を決するようにしている。
ただ、医療についてはおよそ犯罪に問われるべきでないと考えるのは業務上過失致死傷という法律の規定に反するものである上に、患者や遺族をはじめとする国民の理解を得ら什るものではないと思う。
(1)起訴するかどうかは、主任検察官と上司の決裁検察官が協議して、最終的に主任検察官が決定する。
(2)起訴するかどテかの、定型的判断規準はない。
(3)過失の程度、被害結果の重大性、過失が発生した背景事情、示談の有無、被害者側の処罰感情などを考慮して起訴するかどうかを決める。
(4)検察には状況によって起訴しない権限がある(起訴便宜主義)。
(5)過失があり、犯罪が成立すると認定できる場合であっても、実際に起訴する事例は限られており、医療の有用性を十分考慮した上で処分を決定している。
(6)最近の医療機関の安全に対する取り組みは理解している。
(7)業務上過失致死傷という法律が存在する以上、医療だけをこの対象から外すことは患者、遺族をはじめとする国民が納得しないだろう。
医療における罪については、裁判官の判断より、検察の判断が重要です。というかは、医師にとっては、起訴されるかどうかが決定的だからです。起訴されるだけで、多くの医師は社会的地位を失います。また、罪を認めると、略式起訴で罰金50万円になりますが、無罪を主張すると、一、二審で無罪になっても、検察は最高裁まで争います。無罪を主張するほど実質的な罰が大きくなります。
ここからは検察が考える医療における罪について、私が考える問題点について述べます。多くの医師は、いつ、自分が犯罪者にされるか分からないと恐怖を感じています。
検察の判断に対する恐怖は2種類あります。一つは結果が悪かったときの評価です。これは、福島県立大野病院事件で多くの医師が感じたことです。この事件では、癒着胎盤だった妊婦が手術の際大量出血のために死亡し、担当医が逮捕されました。多くの医師は、不可抗力によるもので、妊娠に伴うリスクに含まれるものだと考えました。逮捕は、医師に大きな衝撃をもたらしました。
人はいつか死すべき存在であり、医療は常に不完全技術です。医療は結果を反省しつつ発展してきました。医療では非常に多くの決定がなされます。選択肢も多い。診療の結果が思わしくないようなときには、医療の性質上、後からみれば、注意義務違反、結果回避義務違反は簡単に言い立てることができます。とくに、緊急の場面では、即座に決定し、即座に処置をします。しかも、あらゆることに対応できるような状況にはないことが多い。後からみてベストでない選択が起きても仕方がない状況があります。
しかも、検察は、患者側の処罰感情を起訴するかどうかの判断基準としている。さらに、検察の判断は、世論の影響を大きく受けているように見えます。刑法学者の町野朔氏は以下のように述べています。
「今の社会は被害者感情の満足するようになっています。世論が責任が重いんだという時に、責任が重いんです。従来の考え方は違うんです。認識があったから責任が重いというのが徐々になくなってきたというのは、責任に実体がなくなってきたということです。
刑法は、もともと本当に個人の責任が重いという場合に何とかしようというものでした。今のような世論がそのまま突っ走ることをみとめろということになると、リンチを認めるということになるでしょう」(「ロゴスドン」31号27ぺージ「身近な社会の刑法哲学」)
ヒューマンエラーについては、医療だけの問題ではありません。あえて医療以外の例を挙げます。2005年3月、東京都足立区の東武伊勢崎線竹ノ塚駅の踏切で女性2人が電車にはねられて死亡、2人がけがをする事故がありました。この踏切はいわゆる開かずの踏切で、ラッシュ時には1時間に50分以上遮断されます。ここにいて手動で遮断機の上げ下げをしていた保安係の男性が逮捕されました。この男性は、少しでも人を通しなさいという暗黙の了のもとに、ここに配置されていたと理解されます。この状況は極めて危険です。立体交差にすれば事故は起こりえません。他の人間がここにいても、いつか問違いが起こると思います。ヒューマンファクター工学の常識では、これは誘発されたエラーであり、「犯人」の処罰は安全を向上させません。社会は、この事件を個人の責任としました。会社は男性を懲戒解雇にし、刑事司法は逃げも隠れもしない男性を、逮捕起訴し、有罪にしました。ジェームズ・リーズンの『組織事故』(日科技連)には、不安全行動に抽ける個人の過失の程度を決定するためのデシジョンツリー(意思決定ツリー)が提示されています。彼の判断項目を挙げます。
1意図した行為であったか
2意図したとおりの結果であったか
3無許可物質(薬物などの摂取)の使用
4薬物が治療目的かどうか
5意図的に安全運転手順に違反したか
6手順書が役に立ち、正しかったか
7置換テスト(他の人間も同じ過ちをするかどうか)をパスするか
8訓練あるいは人員選抜の不備、未経験
9過去の不安全行為があったか
2罪の軽減に値しない薬物摂取
3罪の軽滅に値する薬物摂取
4無謀なエラー
5システムが介在する違反
6不注意なエラー
7システムが介在するエラー
8非難に値しないエラーであるが、訓練あるいはカウンセリングが必要
9非難に値しないエラー
最近、日本航空はヒューマンエラーを社内の処罰の対象としないことを決めました。これも、安全を合理的、科学的に扱おうとする努力の表れだと思います。日本では何か事が起きたとき、犯人探しが始まり、処罰を声高に唱える傾向が目立ちます。私はこのような日本社会の攻撃性を非理性的で理不尽だと思います。
身近な臨床で使用される方法について説明します。CT検査ではX線の透過度の差を利用して、体内の状況が影絵として表現されます。CTによる認識は画像の解釈です。画像には相当な情報量があり、画像として表れやすい病変を認識できます。腎癌はその特徴的な画像から、高い精度で腎癌と認識できます。しかし、小さな前立腺癌はCT画像として認識できません。一方、PSA(前立腺特異抗原)は蛋白質です。この血中濃度が高い男性、低い男性の前立腺組織を同じ方法で生検すると、前者に高い確率で前立腺癌が見つかり吏す。CTは個人別に、腎癌の大きさや、右あるいは左の腎臓のどこにあるのかを認識できます。一方でPSAは、ある男性が前立腺癌を有している可能性が高いかどうかを認識することができます。「方法」によって、それを通して見えるものの表現方法、限界、精度が決まります。認識を語るとき、医師は、常に方法について考えます。科学研究では、事実そのものが見えるわけではなく、方法を介した写像が得られるにすぎません。事実に迫るためには、さまざまな写像から、真実の像を頭の中に再構成します。
幸い、検察は業務上過失致死傷の現状に問題があることに気付いています。医療現場を見学したり、さまざまな医療の専門家のレクチャーを聴いたりし始めました。医療以外の分野の専門家の意見も聴き始めていると想像します。検察が判断材料としている「被害者感情」についても、哲学、社会学、心理学などを総動員して詳細に検討する必要があります。
私は、業務上過失致死傷の問題については、小手洗で現代の問題に対応すべきではないと思っています。本格的な議論が必要です。当然、医療との関連だけで議論すべきものでもありません。検察が社会で役割を果たすには、権威を保ち続ける必要があります。権威は、強権だけでは支えきれません。正しさ、ブレのなさ、誠実さの裏打ちが必須です。過失犯罪は医療を含めて、多くの専門分野に共通する大きな問題です。私は検察エリートが、歴史の中で自らを変容させるべく、本格的に活動を開始したと推測しています。
医療との関連では、検察には同情すべき点があります。別の検察関係者は非公式の席で、他の手段がないが故に、刑事司法になじまない問題に手を染めることになったと述べました。医師の中には、医学的に何の根拠もない「治療」を、著書の形で大々的に宣伝して患者を集め不当な利益を得たり、同じような過誤を何度も繰り返したりする者が存在します。これを刑事司法の論理で対処しようとしても、適切な処分ができなかったり、処分による他への悪影響がでたりします。
医療に関する不祥事をより適切に処分するには、医療側の責任のもとに、司法の論理ではなく、医療の論理で処分するのが最も合理的です。
現在の医師の行政処分は医道審議会で決めていることになっていますが、審議時間が短いこと、結論が事務局原案どおりになることなどから、実質的に厚労省が決定しているとみなしてよいと思います。日本やドイツでは、政治の命令で医師が国家犯罪に加担した歴史があります。日本のハンセン病患者の隔離政策は法律にのっとっていましたが、科学的にも人道的にも大きな問題がありました。熊本地裁は1960年以降については、この政策を違法としました。90年に及ぶハンセン病患者の隔離政策の歴史の中で、何人かの医師は科学的事実と自らの良心に基づいて隔離政策に反対しました。このような行動は、法律に強く拘束されている行政官には許されません。国家が大きく道を踏みはずさないようにするには、医師の行動を政治の支配下においてはならないのです。医師は自らを律しなければなりません。意識してきたかどうか分かりませんが、厚労省は、医師の処分への政治やメディアの介入を防ぐために、あるいは、自らの責任を回避するために、踏み込んだ判断を嫌がり、行政処分の根拠を刑事処分に求めてきたと私は思っています。刑事処分になった医師だけを処分してきました(最近少しだけ変化しています)。このため、問題医師がいくら過誤を繰り返しても、刑事事件にならない限り、そのまま、何の処分も再教育も受けず、医師として働き続けるようなことが起こります。
医師は自浄作用がないと非難されてきましたが、医師の処分をしようにも、過去にはその権限がどこにもありませんでした。以上述べてきたような理由により、医師に対して十分な根拠を持って一冷静に処分できるのは医師の団体しかないと思います。弁護士会は強制加入団体であり、みずから基準を決めて処分しています。これによってはじめて、踏み込んだ処分が可能になります。法務省が弁護士の処分をするとすれば、相当な軋櫟が予想され、落ち着いた処分はできません。弁護士の処分に政治が介入するようになれば、とんでもない事態が起こりえます。
医師の処分も、多くの国で実施されているように、法律に基づく全医師の強制加入団体を創設して、医師の処分を医師が自らの手で行わなければならないと思います。
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