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厚労省の資料集から、小松先生の意見書を発見。 あ、その前に、入門編。こちらどうぞ。(おもしろいよ~o(^-^)o ..。*♡) 検討会 虎の門病院泌尿器科小松秀樹 医療とは本来どういうものかについて、患者と医師の間に大きな認識のずれがある。患者は、現代医学は万能であり、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を行えば人が死ぬことはないと思っている。医療にリスクを伴ってはならず、100%の安全が保障されなければならない。善い医師の行う医療では有害なことは起こり得ず、有害なことが起こるとすれば、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護師は、労働条件がいかに過酷であろうと、誤ってはならず、過誤は費用(人員配置)やシステムの問題ではなく、善悪の問題だと思っている。 これに対し、医師は医療に限界があるだけでなく、危険であると思っている。適切な医療が実施されても、結果として患者に傷害をもたらすことが少なくない。手術など多くの医療行為は身体に対する侵襲(ダメージ)を伴う。個人による差違も大きい。死は不可避であり予測できない。どうしても医療は不確実にならざるを得ない。同じ医療を行っても、結果は単一にならず分散するというのが医師の常識である。 日本では1980年代半ばから世界に類をみない医療費抑制政策がとられてきており、2004年には医療費の対GDP比は先進7カ国で最低になった。とくに入院診療には費用がかけられていない。これを医療提供者、とくに、勤務医の労働法を無視した苛酷な労働で補ってきた。 過去には医療が無謬であるという前提があった。このため、医療過誤に対応するための制度が医療に組み込まれておらず、「隠蔽し謝らない」と非難されるような状況が続いてきた。また、民事裁判では患者側に立証責任があり、患者にとって裁判が困難だった。また、勝訴しないと訴訟費用がでない。さらに、裁判を行うには、膨大な時間とエネルギーを要する。このため、多くの医療過誤が患者側の泣き寝入りになり、公平な賠償や、補償がなされてこなかった。その結果、医療への不満が社会に蓄積され、現在の医療への攻撃の遠因になっている。 一方で、司法は医療について科学的判断の能力を持たない。科学的判断に関する部分では蓄積可能な知識があるはずだが、同種の事件を集めて全体として判断について評価するような帰納的な方法を持たないため、知識が集積されていない。科学的な議論が成立しにくいために、判断がメディアの感情論に引きずられやすい。必然的に、法廷での判断には大きな振れ幅が生じる。こうした司法判断の方法と精度が、医師の士気を削ぎ、医療の崩壊を助長している。 2006年に明白になった医療の危機は、死生観、人が共生するための思想、規範としての法律の意義と限界、経済活動としての医療の位置づけ、民主主義の限界の問題など、社会を支配している基本的な思想の形骸化、単純化、劣化と、それに伴う考え方の分裂、齟齬に起因しているように見える。 歴史 歴史の大きな流れの中で現在を位置づける。現在の危機はチャンスでもある。日本の歴史の転換点になりえる。小手先の解決ではなく、根本的な改革案を考える必要がある。実現性についてはその後で考えれば良い。大きな案の実現性は意外にある。歴史は終わるのではなく、継続する。しかも、社会の変化は長い目でみれば大きい。必ず変化するものなのだから、そのつもりで変化を制御しなければならない。短い時間枠の中で喜んだり、絶望したりするのは合理的でない。大きな案が実行に移せない場合でも、実際の対応策の良否を、歴史の視点に立った根本的な改革案との対比で考えなければならない。歴史的な問題なので、拙速を避け、時間をかけて議論を尽くす必要がある。 思想 思想・コンセプトの問題に正面から取り組む必要がある。現在の医療の危機は、制度や人間の行動の背後にある思想の齟齬によるところが大きい。思想の問題に正面から取り組む必要がある。医療に関わる思想の問題を掘り下げなければならない。現在の日本を支えている思想群がいかなるものなのか。互いの対立点、矛盾点は何なのか。それぞれの思想は、現実に対するときにいかなる利点があり、いかなる問題をはらんでいるのか。もし、思想運動が必要なら、どのような方法がありうるのか。誰がそれを担うのか。様々な思想をもつ人間の議論を、思想の問題が明らかになるように演出するのも一つの方法である。 リアリズム 現実の人間のいやな部分を正視する必要がある。人間はコントロールがなければ暴走する。一定の条件に置かれると、日本人も大虐殺をしかねない(関東大震災での朝鮮人殺害を想起せよ)。政府機関と同様に、個々の人間(患者・家族と医療提供者の双方)に対しても、暴走を制御するには、チェックアンドバランスが必要である。さらに、メディアの持っている無責任な甘いコンセプトを捨て去る必要がある。「安心・安全」などという状態はない。ないものを求めると無理が生じる。幻想にとらわれてはならない。統治に虚構がつき物なのは常識かもしれないが、虚構であることが被統治者に明らかになった後でも、なおもそれを押し通そうとすれば、統治の正当性に傷がつく。100 パーセントの安全を求めると現場に無茶な責任を負わせることになる。現場からの信頼をなくすだけでなく、士気を奪う。 2005 年9 月、東京での「日本におけるドイツ年記念・法学集会」で、法社会学者のグンター・トイブナー氏が「グローバル化時代における法の役割変化各種のグローバルな法レジームの分立化・民間憲法化・ネット化」という題で基調講演をした。 具体的例として、ブラジルでの、アメリカの製薬会社が持つ特許を無視したエイズ治療薬の製造販売について言及されていた。特許についての経済分野の合理性で言えば、パテント代金は支払われるべきなのだが、そうなると製造コストが嵩んでしまい、治療薬が提供できなくなってしまう。国民の健康を第一に考える保健分野の合理性と衝突したが、結果的にはアメリカ側が譲歩することで、保健の合理性が優先された。 この観点から日本の状況をみると、国際的に形成された様々な専門分野の合理性に対して、司法が素人の判断を強権で押しつける形になっている。日本では、現在のような国内的な司法レジームは、国民国家が成立したときに形成された。現在の刑法は、明治41年(1908)に施行されて以後、本格的改正は行われていない。刑法は個人を対象としているが、現在の社会は100年前とは全く違う。高度に専門化し、複雑で巨大な組織が社会で重要な役割を果たしている。こうした組織の事故を無理やり過失犯罪として個人の責任にしてしまおうとしている。再発防止にもつながらないし、かえって社会の安全と公平性が損 法は規範の源泉ではない。規範は人間の営みから歴史的に生じる。トイブナーは、法は対話の形式だと考えている。100 年も前の刑法、しかも例外規定である業務上過失致死傷を絶対の規範として振りかざし、現代の複雑なシステムの中で起きる事故を個人の責任として処理することは、そもそも無理がある。
うん。相変わらずいいこと仰っている~。とおもいます。
医療側として忌憚ない意見だとおもうんです。で取上げてみました。
ロハス・メディカルブログ 2007年04月20日
http://lohasmedical.jp/blog/2007/04/post_602.php#more
死因究明機関検討会2
ロハス・メディカルブログ 2007年05月11日
http://lohasmedical.jp/blog/2007/05/post_637.php 「診療行為に関連した死亡の死因究明等のあり方に関する課題と検討の方向性」に関する意見
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/05/dl/s0511-3d.pdf 1 背景
しかし、医療への攻撃が強まる中、医療提供者は、患者の無理な要求を支持するマスコミ、警察、司法から不当に攻撃されていると感じるようになり、勤労意欲を失い病院から離れはじめた。このため、医療の脆弱な部分、すなわち、救急医療、産科診療から崩壊し始めた。2 第三者の専門家による医療事故調査がなぜ必要か
患者側、医療提供者の双方を納得させ、信頼感を取り戻すことが医療の崩壊を食い止めるのに必要である。3 医療についての総論的議論の必要性
考え方の齟齬をそのままにして、具体的対策について議論しても、建設的な議論ができない。日本人の行動様式を含めて、基本的な認識と考え方について、国民に注視される中で象徴的議論を行い、齟齬の解消を図る必要がある。医療臨調のような会議を設けて、少人数による大掛かりな議論を演出する必要がある。この危機を乗り越えられるかどうかは、不確実性の受容を含めて、日本国民に適切な社会思想が醸成できるかどうかにかかっている。
齟齬の解消が図れずとも、せめて認識の違いを明確にしなければならない。その上で、医療事故の調査、公平な補償、医療事故に関する刑事責任と行政処分のあり方を総合的に検討する必要がある。4 議論の基本態度
5 規範的予期類型と認知的予期類型の齟齬
1971 年、ニクラス・ルーマンは、将来の世界社会では規範的な予期類型=政治、道徳、法ではなく、認知的な予期類型=経済、学術、テクノロジーが主役を演ずるようになり、世界社会の法はそれぞれの社会分野ごとに形成され、極端な分立化に至ると予測した。この予測は的中し、現在、様々な分野ごとに多数の国際的な調停機関が林立している。
トイブナーは、世界的な紛争を処理するのにどのような方法が有効か、と問う。これまでの考え方としては、法中心主義的アプローチと政治中心主義的アプローチで対処しようとしてきた。法中心主義的アプローチでは、国民国家で形成されたような精緻な整合性、明確な規範ヒエラルキー、厳格な審級制度などで対応する。
もう一つの政治中心主義的アプローチは古典的な国際政治の方法だが、衝突を利害あるいは政策の対立ととらえ、国際的なバランスのなかで、権力間の利害を調整しようとする。そもそも法中心主義的アプローチによる解決は、国内では有効だったが、国際的にはあまり意味をもたなかった。国際司法裁判所のような機関があるが、従来から十分に機能していなかった。
トイブナーは、紛争の種類として、国と国の間の利害や政策をめぐる衝突よりも、世界社会の分野ごとに形成された部分社会間の合理性の衝突が重要になってきたと指摘している。分野ごとの正しさの衝突ということになると、法はとうていそれらの矛盾を解消できない、互いの規範を尊重し、自律的部分社会同士の相互観察で共存を図るしかない、とする。
「現実的に見るなら、法にできるのは、さまざまな合理性の衝突の自己破壊的傾向を、法的『形式化』によって阻止することだけである。法が社会におけるさまざまの合理性の衝突そのものと取り組んで成果を挙げることなど、どうしてできよう?うまくいくのは、そうした合理性の衝突の限定された一部だけでも法律問題に翻訳し、それによって平和的解決のフォーラムを提供する場合なのだ。しかも、その場合も、法は上位の調整者として働くのではない。全面的支配の傾向や一方的な圧政に抗して、相互的な自律を法的形式によって保証できればそれだけでも、たいしたことである。」
われる。対象が国内と個人に限定された、1 世紀前の古い法律が、国際的に正当性が形成され、しかもそれが、日々進歩する医療レジーム、航空運輸レジーム、産業レジームなどと対立し、ときに破壊的な影響を与えつつあるようにみえる。
刑法35 条は「正当な業務による行為は、罰しない」としている。医療ではヒューマンエラーは避けられない。事故につながるかどうかは、システムの問題が大きい。正当な専門的業務の制御のルールを、規範的予期類型の言語で規定することは安全を向上させない。相応の言語体系を持つ専門家による制御が必要である。(後略)
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