これ、すごいです!!!
めちゃめちゃ勉強していますね。びっくりしました。大絶賛です!
[週刊東洋経済]医療特集を読む
東京日和@元勤務医の日々 2007.04.24
http://blog.m3.com/TL/20070424/1
Sky Team先生おすすめのこの雑誌。じゃじゃん。
病院売店でも売っていることがあります。(うちではまだ先週号を売ってたけど)
ぜひぜひ、医局に一冊。おうちに一冊。事務さんに一冊!!!ではどうぞ。
消えた医師の悲鳴を聞く ルポ 勤務医の逃散
“手負い医者”の理想と現実 「よくやってくれた」もなかった
(週刊東洋経済 2007.4.28 p58-61)
連休明けの病院は忙しい。午前の外来診療は、気がつくとも
う午後2時を固っていた。
「おかしいな」
新潟県十日町市、あべ小児科クリニック院長、阿部好正さん(弘)は思った。2001年9月、県立十日町病院で小児科部長を務めていたときだった。と、そのとき、腰に激痛が走り、意識がはっきりした。
12時を過ぎてから、それまで2時間の記憶がなかったのだ。「おそらく一生懸命に診ていたと思うんです。でも、腰がじーんとするなと思ってからは記憶がない」痛いと思うと、もう動けなかった。それでも痛み止めを打ちながら午後の仕事を片付けた。
その週、市の健康診断で会場を訪れた阿部さんは、帰ろうにも一歩も動けなくなってしまった。車いすでタクシーに乗せられて戻ってきた。その日も、杖をつきながら、救急をこなした。
小児科の診療は、小さな子どもの位置まで腰を折り曲げる。不自然な姿勢が負担になり、長身の阿部さんにはなおさらだった。そうした疲労の蓄積が原因と思われた。
病院を休むわけにはいかなかった。小児科の医師は、もう1人しかいなかったからだ、さすがに夜間の救急は3ヵ月休ませてもらったが、それでも痛みに耐えかねた。
「『休め』と命令してください」
上司にそう懇願したこともある。
「患者さんが来る以上、自分から休むことはできません」。悲鳴だった。だが命令は発せられなかった。
夜間救急に復帰した直後、重症の子どもに点滴をしようにも、踏ん張りがきかなかった。子どもの血管は細く、1ミリでも動けば刺すのが難しい。阿部さんはもう1人の医師を呼び出し、処置を依頼した。
駆けつけたもう一人の医師は激怒していた。「さんざん休んだのに、また呼び出すんですか」。阿部さんはそのとき、2人とも疲弊し切っていることに気がついた。
「医者、辞めようかな。もう、ここまでかな」
そう思った。踏みとどまったのは、理想があったからである。
物言わぬ子どもの医療は、大人とはまったく別の世界だ。たとえば泣き声で判断して関節の外れや口内炎をみつけるような診療を行う。独特の見立ても必要で、せきが長引く原因が蓄膿だということもある。目がはれぼったいという親の訴えで、腎臓ネフローゼを見つけたこともある。急変も多い。「のどはそれほど赤くないけど、何かあったら来てくださいね」という言葉が最後になってしまった子もいた。小さな異変に。思いもよらぬ芽が潜んでいる。
そうした子どもたちのためにできるだけの診察をしてあげたい。その思いで阿部さんは毎日、時間外の午後8時半に、救急患者を診る時間を設けていた。共働きで帰宅した親が子どもの異状に気づいても、これなら重くなる前に受診できる。
しかし、1度に15~20人も訪れる患者を診療し、点滴を打っなどすれば、帰宅は午後11時にも12時にもなった。土日にも同じように午前10時半、午後4時半、午後8時半と3回の診療時間を設けた。腰痛になってからは午後4時半の診療はやめたものの、多くの受診が続いた。
阿部さんは東京出身。東京の大学の医局から24年前、11年ぶりの小児科医として十日町病院に赴任した。部下が2人派遣されていた時期もある。しかし、医局からの派遣は1人減り、またー人減りで、負担は重くなった。阿部さんにも東京への引き揚げが指示された。しかし、十日町市での医療にこだわり、残留した。
その阿部さんが、ついに十日町病院を退職したのは昨年7月だ。入院を優先させる診療方針に考えが合わなかった。予防注射や学校の健診など「公」の仕事もしたかった。腰痛で「手負いの医者」(阿部さん)となってからは、さらに患者の側に立とうと心掛けた。そして、昇進を拒否してまで夜間診療にこだわってきた。阿部さんは退職時に、そうした理由がわかるかどうか院内で尋ねてみた。返答はこうだった。
「そんなやり方もあるだろう」。
欲しかった「よくやってくれたね」の一言はなかった。最後に病院を後にしても、涙は出なかった。
今、市内で開業した医院は、平日は午後7時まで開けていて、土固祝日も診療している。悩みは忙しすぎて、病状をゆっくり説明する時間がないことだ。公の仕事にも精カを注ぎ込む余裕がない。さらに最近、土日祝日の出番がスタッフ疲労させていることにも気がついた。「こうしたやザ方は、十日町では根付かないのか」。理想は崖っ縁だ。思いをともにし、サポートしてくれる人が見っからなければ、せっかくの医院を畳むことも考え始めている。
救急・時間外で医師疲弊 病院崩壊から救急崩壊へ
近年、中核病院から大量の勤務医が退職し始めた。「医師逃散」とでもいうべき事態だ。理由はさまざまで、阿部さんのように前向きな医師もいる。だが、多くは忙しすぎ、燃え尽きるようにして「逃散」してしまう医師である。
原因はいくつかある。新しい臨床研修制度で医師が不足した大学が、医局から派遣した病院を引き揚げたのも一つだ。現場の医師が減り、過労が重なり、燃え尽きてしまうのだという。たとえば3人の診療科で1人減ると、救急も2人で回さなければならない。1日置きに病院で夜を過ごすことになる。受け持ち患者の容態が悪化すればさらに病院漬けの日が増える。こうして残された2人は疲弊し、そのうち1人が欠け、さらに1人も欠け、ゼロになる。この場合、大学の医局から抜けて、自分で探した小さな病院や開業に走ることが多い。また、2人では大変だからと、医局自身が病院から引き揚げさせることもある。
医師のサラリーマン化など気質の変化も原因とされている。時には連続40時間にも及ぶ診療時間は誰もが避けたいのが本音だろう。救急の少ない眼科や皮膚科に医師の人気が集まっているのは、これが理由だ。
訴訟社会化で訴えられ、辞めてしまう医師も増えた。刑事事件としての立件も増えてきている。ただ警察に事情徴収されただけで退職に追い込まれることもある。「助けようと必死になっても、たどる道筋によっては悪い繕果もある。そうしたときには、どんなに善意でも警察に逮摘されるか、訴えられるかを覚悟しなければならない」とおびえる医師は多い。
一方、こうした大量退職で経営が揺らぐ病院も出始めた。
新潟県阿賀野市立水原郷病院では、06年度から医局による引き揚げや自己退職が相次ぎ、26人いた常勤医師が14人に減った。市によると日に30件近くもの救急・時間外診療
が、負担を大きくしていたという。寝る間はない。疲弊し、辞職していった医師がいるというのだ。寝る間はなくても、翌日には普通どおりの勤務が待っている。そして何十時間もの勤務が続く。救急搬送が多かったのは、市内に休回当番医の制度がなかったせいもある。また、同病院には脳外科があったため、事故の救急も多かった。しかし、時間外でも診てもらえるからと気安く患者が訪れたため、逃散に結びついたという指摘もある。医師の激減した同病院は結局、救急病院ではなくなった。
「病院へのかかり方を考えないと、病院がなくなり、住めない地域になるとわかった」と、同病院に通院する女性(65)は話す。住氏は高い代償を払って学んだが、一度減った医師は簡単には増えない。
一言で異動させられ将来の展望が持てない
ある病院が崩壊すると、ドミノ倒しのように近隣の病院が崩壊する。千葉県東金市や山武市などの山武地域では、中核2病院の内科が競うようにして崩壊した。県立東金病院は13人だった内科医が昨年度3人なり(現在は4人)、国保成東病院は11人いた内科医が昨年度ゼロになった(現在は5人)。一方が減ると、救急搬送はもつ一方に集中する。そうしてお互いの医師が疲労し、こぼれ落ちるように退職していった。
そうなると、救急搬送に支障が出る。山武郡市広域行政組合消防本部は今年4月1日、救急車1台と救急隊1隊を増やした。というのも、2病院の内科崩壊で管外搬送が増え、出払ってしまう救急車が続出したからだ。それまでは7台の救急車に加え、非常用車1台と非番の隊員も待機させていた
が、ついに増やさざるをえなくなった。
医師逃散が病院崩壊につながり、救急崩壊にまで発展するのだ。だが、病院を維持するためといって、医師に強制的にでも中核病院の勤務医を続けろとは言いにくい。というのも、一般のイメージとは違い、勤務医の人生設計や収入は恵まれているとはいえないからだ。
ある総合病院を辞めた30歳代の内科医に会った。その内科医の場合も、発端は医局の医師引き揚げだった。3人だった診療科が2人になった。
「1人が休めば、心臓の救急など1人で処置せざるをえません。命に直結するので絶対に避けたかった」内科医は派遣元の大学に3人体制の復活を何度も求めた。ところが、大学がほのめかしたのは、むしろ撤退だった。ただし、明確なビジョンがあっての撤退だとは、内科医には思えなかった。
「この地区は患者が増えているから医師を多く派遣しようとか、他の大学から派遣できるから引き揚げようとか、そうした基本的なことさえ考えられていませんでした。単なる数合わせです。また、医局の誰が開業を考えているかの意向調査もしないため、5年先や10年先を見越したビジョンなど持っていないのが実情でした。しかも、撤退を決めていても直前まで病院に話さない方針で、病院は独自に医師確保ができない状態でした。これだと経営問題にさえ発展します。それに、私にも頼ってきてくれる患者がいることなど、考慮だにしてもらえなかった」(同医師)。
むろん医局人事のメリットもある。派遣先に適合できない場合は病院間の異動が可能だ。医局の上下関係で現場に出ても技術向上が図れる。辺境の病院に派遣できるのも、帰り道のある医局ならではだ。
「でも、引き揚げて他の病院にポストがなければ医局の無給医です。また、医師としてどのような道を歩むか、自分で決めることすらできません。だから、若い人に対しても、こんな医者になれるからおいでよ、と誘えない。自分の人生なのだから、自分で確立していきたい。だから医局を離れようと思いました」(同)。
そもそも勤務医としての過労やストレスは体をむしぱみ、難聴になったり、手が炎症を起こしたりしていた。一線でいつまでできるだろうか」。思い切って予防医学に転身しようと考えた。
ただ、その内科医ら残っていた2人が一緒に辞めてしまったため、病院からはその科の常勤医がいなくなってしまった。
昨年逃散した中部地方のベテラン外科医も将来への不安が原因だった。「かっては花形と呼ばれた外科も、花の命は短い。50歳代になれば、10時間を越える手術や最新の技術にはついていけなくなります。退職後は老人施設の嘱託ぐらいしかなく、普通のサラリーマンの給与にも程遠い薄給の生活です。そうした姿を見ると、若手は最低限の技術を身につけるや勤務医を辞めて開業するようになる」(同外科医)と話す。
散りぎわはあまりに寂しい。
過酷な勤務実態や、閉鎖された診療科のニュースは日々報道されている。だが、当の逃散した医師の事情はあまり知らされていない。医師がなぜ去るのか、肉声を聞き、社会全体で考えなければ、解決にはつながらない。そんな間題意識から、あえて逃散した医師の言い分を載せた。
このままでは全国で中核病院がなくなってしまいかねない。
コメント